法隆寺にて | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

釈尊から達磨、そして聖徳太子へのバトンタッチ

朝一番で奈良から法隆寺に向かった。JR大和路線法隆寺駅で降り、20分ほど歩いた。そのうちバス停の奥に南大門、そしてその右手に金堂、左手に五重塔がそびえるのが目に入ってくる。言わずと知れた世界最古の木造建築である。

門をくぐると見える回廊の柱も、ギリシア神殿を思わせるふくらみ(エンタシス)が美しい。

金堂に入る。薄暗いなか、おぼろに釈迦三尊像が迎えてくれる。表情のかたさは飛鳥大佛とよく似ているが、こちらのほうが多少和らいで見える。これも佛師鞍作鳥が聖徳太子の亡くなった後に、その姿を写して作ったものという。太子は日本の佛教史上最初の「佛教インフルエンサー」といってよいだろう。そして出家せずに在家のまま信仰を貫いたことも、後の日本佛教に大きな影響を与えた。

一国の最高権力者にして佛教に帰依した者は太子だけではない。例えばインド・マウリヤ朝のアショーカ王は殺生をもいとわぬ暴君だったが、改心して佛教を熱く信じ、紀元前三世紀にインド亜大陸の隅々まで佛教を広めたという。とはいえ異教徒に佛教を強要するのではなく、宗教同士の融和も図ったことは評価されるだろう。

またそのインドで生まれ、中国大陸で佛法を広めようとした達磨大師は、五、六世紀に佛教を広めるのに熱心な梁の武帝に謁見した。武帝は達磨大師に「私は経文を編纂し、各地に佛塔を建てた。どんな功徳があるのだろう。」と問うたところ「功徳はなし」と冷たく答えた。功徳目的の佛教振興では意味がないというのだ。佛教は功徳を得る手段ではない。佛教そのものが目的なのだ。武帝に期待していただけに失望した達磨大師は、嵩山(すうざん)少林寺にこもって壁に向かい九年間坐禅し、禅宗の開祖となったという。

そして達磨大師の没後に日本で生まれた厩戸皇子が、日本で最初に佛教精神に基づく政治を行った政治家といえよう。おばの推古天皇の摂政として八面六臂の活躍をした彼の基本精神は主に佛教に基づくものだが、それはブレインにして高句麗僧の恵慈(えじ)に学んだものらしい。

それは例えば役人の服務のあり方について「十七条の憲法」には「篤く三宝を敬へ。三宝とは佛法僧なり。」とあることからも明らかである。「佛法僧」とはほとけとその教え、そして僧侶のグループを指す。

さらに「忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。夫(そ)れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。などは独りよがりな考えの誤りを説いており、八正道の「正見」「正思」の影響がみられる。

釈尊の教えは達磨大師がランナーとなって中国大陸に、そして地続きの朝鮮半島から恵慈が聖徳太子にバトンタッチして日本に広まっていったのだ。

金堂の壁画―美術史としてではなく

1949年に火災で焼失してしまったが、復原された金堂壁画のほとけたちの大胆な表情やくねくねした腰つきは、釈迦三尊像とは異質の「インドらしさ」を感じさせる。グプタ朝のアジャンター石窟寺院に類するものがあるというが、これを見ると私の知っている唯一のパーリ語が口をついて出てきた。

ブッダン サラナン ガッチャーミ(南無帰依佛) 

ダンマン サラナン ガッチャーミ(南無帰依法) 

サンガン サラナン ガッチャーミ(南無帰依僧)

子どもの頃に通っていた佛教日曜学校で毎回唱えていた「三帰依文」だが、これこそ「篤く三宝を敬え」という聖徳太子の教えそのものだ。釈尊が話した言葉に近いらしいこのパーリ語は、主に上座部佛教で使われるというから、スリランカやタイ、ミャンマーなどの佛教徒ならこの意味が分かるのだろう。そのため禅寺や浄土系の寺院ではめったにでてこないが、日本以外の佛教に接したときはパーリ語が口をついて出てくるのだ。

大乗佛教、上座部佛教を問わず佛教徒同士のつながりを感じさせてくれるこの言葉だが、金堂壁画の複製を見たときにこれが無意識に出てきたということは、やはり私にとってあの壁画は日本のものというより異国のものと認識しているのだろう。

同時に気づかされたことがある。これは日本史の教科書でも必出だが、私はほとけを「美術史」の一環としてみることができないようだ。鑑賞と批評の対象ではなく、あるときはすがり、あるときは自分のダメさ加減を改めて認識させてくれるものが仏画であり仏像なのだ。

「東洋のモナ・リザ」、百済観音

法隆寺は金堂や五重塔、講堂を中心とした西院と、夢殿などからなる東院伽藍からなるが、その間に「大宝蔵院と百済観音堂」という宝物殿がある。その中にまします百済観音は中学時代に修学旅行できて見たときから不思議な感覚をいだかせるほとけだった。身長は209㎝と高いがほっそりとやせ、肉感は全くなく、何かを言いかけてやめたかのような曖昧な表情をしたこのほとけは、その名に「百済」という国名を冠する以外にはほぼ何もわかっていないだけに、想像の翼を自由に広げて背景を考えることができる。

合掌礼拝してからどの角度が最も美しく見えるか、ベストアングルを無遠慮に探す私に、百済観音はさぞ迷惑がっていることだろうと我ながら思う。ある時気づいた。これは東洋のモナ・リザだ。この微笑と控えめな美は、ルーブル美術館に展示されていてもモナ・リザに引けを取らない。などと思っていたら、本当にルーブルに日本美術を代表して出展されたと知り、驚いた。みな考えることは同じなのだろう。

なぜかこれは私にとって「信仰性」よりみ「美術性」が強いらしい。自分の中のこの基準がよく分からない。

 

玉虫厨子に見る自己犠牲の精神

院内で次に気になるのは「玉虫厨子」である。厨子(ずし)とはいわば佛壇のようなものであるが、その側面に描かれた「捨身飼虎図」はシッダールタ王子、すなわち釈尊の前世を表しているとされ、特に佛教的色彩が強い。

縦長の画面の上には崖から飛び降りようとする王子が、中ほどには頭から落ちようとしている王子が、そして下には虎に食べられる王子が描かれている。見方によっては縦長のコマ割りのない三コマ漫画にも見えてくるこの作品こそ、もしかしたら後の日本大衆文化の伝道師となった「漫画」の起源なのかもしれない。

それはともかく、この絵は有名な佛教説話を表している。王子が森を歩いているときに飢えた虎の母子がおり、母トラが我が子を食べようとしているのを見かけた。かわいそうに思った王子が我が身を崖から投げ落とし、母トラに与えたという。釈尊というのはこの功徳によって次の生でシッダールタ王子として生まれたのだろう。

手塚治虫の「ブッダ」に、山の中で飢えた老人に出会った三匹の動物のうち、老人に与えるものがないため焚火に飛び込んで我が身を焼いてその老人に捧げたウサギの話が出てくるが、このように自分の身を他人に捧げる自己犠牲は大乗佛教に特に顕著である。

その割には玉虫の羽をむしって飾るというのはこの教えに反しているようにしか思えないという考えはひねくれているだろうか。

 

ウイグル人を思い出す伎楽面(ぎがくめん)

法隆寺の大宝蔵院には伎楽面があると思っていた。伎楽面とは呉から伝わった仮面劇の面であるが、その目鼻立ちがウイグル人をほうふつとさせる。東京国立博物館の法隆寺館でこれを見た瞬間、昔中国に住んでいたころを思い出した。道端で自転車のスポークの先を削って串にし、香辛料をまぶしたスパイシーな羊肉をさして炭火で焼く「羊肉串」を焼くウイグル人たちをあちこちで見かけたものだが、舌を回して大声で客を呼び、片言の漢語(中国語)を話す彼らからいつも羊肉串を買っていた。伎楽面の容貌が実に彼らそっくりで、面を見ながら遠くシルクロードを思い出した。

それらは法隆寺から皇室に献上されたものというので、こちらにもあるかと思ったら、伎楽面は全て東京国立博物館で保存されているとのこと。

面というと、纏向(まきむく)遺跡からは目と口をうつろに開けた本邦最古の木製面が出土されている。そして田原本町の秦楽寺は大陸の楽曲や舞踊を伝えた秦氏の本拠地の一つであり、大衆的な仮面劇にすぎなかった猿楽・田楽を哲学的な芸術まで高めた観阿弥・世阿弥も秦氏の子孫ということになっており、その近くに住んでいたらしい。弥生時代から飛鳥時代、そして室町時代まで、大和盆地は日本の「面の本場」だったのだ。

ただ、海を越えてやってきたかのようなエキゾチックな伎楽面がここでは見られないことが残念でならない。

 

夢殿救世(ぐぜ)観音だけは見られない理由

東院伽藍の中心は夢殿であるが、この八角の堂内にあるのが「秘佛」救世観音である。今も春と秋に限定的にしか拝観できない。私も大学時代に一度拝観したことがある。しかし私はなぜかそれを鑑賞できず、下を向いて拝んで帰っただけだった。

写真で見ると金箔がそれほどはがれておらず保存状態が極めて良い。私がここに行ってしげしげと拝観できない理由は、明治時代の話を読んで知っていたからだ。文部省の委員として美術品調査の目的でここを訪れた岡倉天心やフェノロサは、ほとけに対する冒涜を畏れる僧侶たちを押しのけ、数百年間誰も見たことのないこの秘佛を白日の下にさらした。それが四、五百メートルもの布の中に現れたのがあのほとけだったという。その神秘をさらすという行為に私は抵抗を感じ、目の前に御開帳されていもみなかったのだ。

江戸時代に寺院は幕藩体制の末端組織に置かれた。明治初期に、それに憤った一部の人々は廃佛毀釈によってほとけを薪に燃やしたり、道端に打ち捨てたりした。でなければ美術品として美術館のショーケースに入ってしげしげ見られ、批評されるか、そうでなければ商品として海外に売られるかであり、いずれにしてもほとけのもってきた佛法の伝道者として、または崇拝の対象としての役割は強引に奪われた。そんな記憶があるため、私は見たくてたまらないがこの目で拝観したことがない。これからも拝観することはないだろう。

そして伽藍を離れ、隣接する尼寺、中宮寺に向かった。(続)

 

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