人権エンターテインメント施設と「北方民族」という視点―網走 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

アイヌとは和人のまなざしによって規定される?―北方民族博物館

根室から曇り空の中うっすらとみえる国後をにらみつつ、野付半島、知床半島を通り、網走に到着した。ここにはアイヌから一歩離れてアイヌをみることができる二か所の博物館がある。まずは街を一望できる天都山(てんとざん)に位置する北方民族博物館である。類似名称のところとして、本州人からみて北海道のゲートウェイである函館市の函館山麓にも北方民族資料館があるが、そこから北は本来北方民族の居住地域だった。

ファノンに影響を与え、著書「地に呪われたる者」に長い序文まで寄稿しているサルトルは「黒人とは白人のまなざしによって規定される」と考えている。それを北海道に当てはめると、「アイヌとは和人のまなざしによって規定される」となる。現にアイヌ人の資料館や関連施設のみを歩いてみてきた私には、それらのほとんどがアイヌそのものではなく、「和人のフィルターを通したアイヌ」であることに気づく。

しかしここの博物館ではアイヌを和人との対象としてではなく、あえて国家形成をしなかったためにロシア、中国、アメリカなどの国家の一部に組み込まれた「北方民族」の一つとしてのアイヌの存在が分かり、新たな視点を獲得することができた。例えば数十の北方民族の服が展示されているが、これを見ると和人VSアイヌという対立関係は脳裏から吹き飛び、多々ある北方民族の一つがアイヌであることに気づかされる。

 

ディアスポラのファノンとウィルタ人

そもそもここにこのような博物館があるのも、戦前樺太に住んでいた日本国籍を持つ先住民、ウィルタ人や二ヴフ人が敗戦とともに北海道に移住してきた土地が網走だったからだ。そのうちの一人で、ウィルタ人のゲンダーヌ氏は、樺太でソ連に抑留され、シベリアでの強制労働をへて舞鶴経由で網走までやってきた。そして苦労に苦労を重ねてウィルタ人、二ヴフ人、樺太アイヌの施設資料館「ジャッカ・ドフニ(大切なものをおさめる家)」という民族資料館を1978年、網走に建てた。残念ながら2010年代に閉館したが、そのコレクションは一括してこの北方民族博物館に所蔵されている。

ファノンの先祖はアフリカからカリブ海の仏領マルティニークに連行された。そこが仏領だったために自分のことを「ニグロ」ではなく「フランス人」だと認識していた。だからフランスを解放するために戦ったのだ。後にフランス本国にわたって初めて「ニグロ」扱いされたことは先に述べた。ゲンダーヌ氏も日本領樺太に生まれ、日本語教育を受け、日本軍の特務として諜報活動に従事したため、敗戦後シベリアに抑留された。そして戻っていくのは樺太ではなく、樺太に最も近い日本領、北海道の網走だった。

ファノンは白血病で36年の短い生涯を終えるまで、その皮膚の色からフランス人になりきれず、「ネグリチュード」にも結局は疑いを持った一方で、ふるさとマルティニークを愛し続けた。日本軍のために働いたとはいえ、ゲンダーヌ氏は日本国籍でなかったため、戦後補償も受けられなかった。また「同胞」ウィルタ人の数も数万人のアイヌ人に比べて数十人しかいない。彼は日本社会の一員として日本に同化しようとしたが、結局はウィルタ人として網走で生きることを選んだ。

両者とも政治的、精神的に故郷を離れざるを得なくなった「ディアスポラ(離散者)」である。日本の少数民族、アイヌ人からみてもさらに少数民族であるウィルタ人の彼が属するグループというと、同じように日本、ソ連、中国、米国など大国によって従属的立場に追いやられた「北方民族」なのだろう。

この博物館の展示品の中で、気になったものがある。首のない土偶のようなものだが、本州の土偶とは異なり、写実的だ。「モヨロ貝塚出土」とある。日本史の教科書にはまず出てこないだろうが、ここももう一つの視点からアイヌ人をみるために必要なようなので、オホーツク海沿いのこの資料館に向かってみた。

モヨロ貝塚―先住民アイヌの前の先住民

アイヌ人が北海道全域に居住し、その民族性を発揮するようになるのはおそらく13世紀ごろとされる。それまでの北海道はどのような場所だったのか。そのヒントがこのモヨロ貝塚にあった。

一般的に貝塚というと、本州では縄文時代のものであろうが、ここの貝塚は七世紀のものとされる。それよりも興味深いのが、発見者は在野の考古学者、米村喜男衛(きおえ)氏だが、彼のユニークなのは大学等研究機関に所属せず、近所に床屋を開いて生計を立て、残る時間を全て考古学に打ち込んだのだ。なにやら群馬県の岩宿遺跡を発見した相沢忠洋氏が納豆の配達で生計を立てていたことを思い出す。

考古学は特にこうした在野の大学者たちに支えられているところがあるが、彼のおかげで道東や道北では縄文文化ではなく、漁業や海洋での狩猟(トドやラッコ等)に従事する「オホーツク人」が存在していたことが分かった。しかもその居住範囲は、北は樺太、東は国後にまで達するが、9世紀ごろに消滅したようだ。それらのエッセンスが後のアイヌ文化に吸収されたのか、この貝塚館ではアイヌが神と仰ぐヒグマの像などが見られる。

北海道の先住民族はアイヌ人だけではない。さらにその前には、少なくとも道東・道北にはオホーツク人もいたのだ。北方諸民族というくくりで見ると、アイヌ人の前にオホーツク人がいて、戦後そこにウィルタ人、二ヴフ人が加わった。小さな町だが実に諸民族共生の地であるのがここだったのだ。

 

「人権エンターテインメント施設」網走監獄

網走といえば監獄である。そしてここはダークツーリズムの聖地でもある。ここの面白さは、「塀の中の懲りない面々」の実態をのぞき見したいという能天気な冷やかし半分の一般観光客をひきつけ、一歩中に入ると北海道の開発が実に人権を踏み台にしてなされたかということを、遊び心を刺激しつつ切々と学ばせる、究極の「人権エンターテインメント施設」なのだ。

到着時間はあえて正午にした。というのも入口に「監獄食堂」があり、ここで監獄食が食べられるからだ。サンマまたはホッケとおひたし、麦三割のごはん、味噌汁、漬物からなるこの監獄食は、「大人の給食」のようだが、普通にうまい。なによりも「監獄気分」を高めてくれる。店のおばちゃんに尋ねたところ、これは昭和六十年前後の監獄食だという。

館内に入るとそのようなレクレーション性はなくなる。歴史の教科書では北海道開拓は釧路の鳥取藩士の移住のように「屯田兵」が中心になったとされるかもしれないが、ここの庁舎では明治初期に本州各地の囚人をここに送り込み、更生どころか未開の北海道に道路作業をさせるために酷使したという「開拓」の裏の歴史がまざまざと見せつけられる。ちなみに「囚人」の中でも士族の反乱による政治犯や思想犯等、政府批判者も少なくなかったが、彼らに対する懲罰兼開拓という一挙両得を考えていたのだ。開拓を進めなければ、この海のすぐ向こうに広がるロシアの軍事的動向が気になったからだろう。

特にひどい話が道内各地にある「囚人道路」と呼ばれる道路で、1200人の囚人に163キロをわずか8カ月、つまり毎日休みなく700メートルほどの道路を人力で拓かせたのだ。彼らは逃げないように重さ1キロほどの鉄の球を足に鎖でつけられて働かせていた。

囚人のコスプレ?

彼らのおかれた人権無視の惨状を、なんと体験できるのもここの特徴だ。例えば労働中はオレンジ色の作務衣を着せられ、顔が見えないような笠を目深にかぶらされるが、そのコスプレが体験できる。さらに足に鉄球をつけることもできる。一種のアトラクションである。さらに300円で投獄中の記念写真も撮れる。こうして一般客の「好奇心」をくすぐることで、息がつまらないようにしているバランスには脱帽である。

アイヌ人たちの住んでいた土地を奪った和人、という和人VSアイヌ人という対立構図がもろくも崩れた。「和人」と一括りにすることの意味が分からなくなってくるのだ。翌日道東最大の温泉、川湯温泉からほど近い、阿寒摩周国立公園の景勝地硫黄山(アトサヌプリ)に行った。草の一本も生えない地肌から硫黄が今なお噴き出るこの山は、歩いていると頭痛を覚えるほどで早々と退散したが、ここの硫黄を取らされていたのも囚人たちだった。

見学コースの最後には、囚人の心が荒まないようにと、宗教施設として教誨堂の立派な建物が移築復元されているが、ここで教誨される(悔い改める)べきは、囚人というよりそのような人権無視のシステムを作ってまで国土を発展させようとした政府ではないかと思うようになった。

全体を見終わって感じた。ここでは納沙布岬とは別の意味でアイヌ人の姿が全く見いだせない。ただ言えるのは、本州では見られなかったほどの人権無視がこの北の島の箱館や札幌や旭川といった大都市から離れた流氷漂う町で制度的に行われていたということだ。そしてそれは江戸時代を通してアイヌ人を酷使してきた「伝統」の延長線上に思えてきた。

帰りがけにまた「囚人食堂」が目に入った。もし今あの「囚人食」を食べると、もっと近代日本の抱えてきた諸問題とともにざらついた舌で麦飯を呑み込むのだろう、などと思いながら駐車場に向かった。

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