ボーダーはつなぐものか?切るものか? | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

ラクスマンと大黒屋光太夫―根室港

根室から根釧台地を東にまっすぐ進み、カキの養殖で知られる厚岸で宿を取った。翌朝、カモメの声に送られて国道44号線の牧草地帯をまっすぐ根室半島に向かった。

根室市のいかにも港町らしいアップダウンの続く道を通りぬけ、根室港にたどり着いた。目の前に弁天島という小島が見えるが、こここそ1792年にロシアのラクスマンが漂流のすえシベリアに着いた伊勢商人、大黒屋光太夫一行を送り返した場所である。彼らは八か月にわたりあの島に滞在し、老中松平定信に通商要求の返答を待った。原則ロシアと交易する気はないのだが、江戸に来られて軍事力を見せつけられては幕府の弱腰外交が露呈してしまう。そこで長崎だったら話を聞こう、というジェスチャーで「信牌」という入港許可証を与えた。しかしラクスマンはそれで満足し、帰国してしまう。

実はこの時、幕府は薄氷を踏むかのような危ない橋を渡っている自分たちに気づいていたようだ。なぜならラクスマンが来る三年前、この根室半島周辺でシャクシャインの蜂起以来のアイヌ人による大規模な蜂起があったからだ。

 

チャシ―根室半島

日本100名城スタンプラリーという、各城郭で御朱印帳のようにスタンプを押していくのを趣味とする人も多いようだが、その第一番は根室半島チャシ群跡である。チャシというのはアイヌ人の城砦をいうのだが、その数は道内だけで推定五百カ所。天守や櫓はおろか、堀や石垣などがあるわけではなく、天然の崖や海や川を利用したものがほとんどだ。その中でも保存状態が良い「チャシの代表」が根室半島のノッカマップチャシである。

根室半島のオホーツク海側を東に進むと、お目当てのチャシらしき場所があったので車を停めて歩いてみた。本州の城郭にはないくらいの断崖絶壁と高低差をうまく利用した天然の要害そのものだ。一カ所だけ、広瀬川の断崖絶壁を利用した仙台青葉城がここに匹敵するかもしれない、などと城郭マニアにしか通用しないことを考えながら、笹やヨモギが生い茂る小道を歩いて海岸までたどり着いた。真夏のはずだがオホーツク海の風は冷たい。

フランス革命があった年の1789年、松前藩や御用商人たちの搾取と圧政に立ち上がったアイヌ人たちがいた。当時の松前藩は家臣に対し、特定の町でアイヌ人と交易できる権利を与えていた。そして家臣たちは近江商人ら、本州各地の商人を御用商人として使っていたのだが、御用商人たちは家臣というクライアントに儲けの何割かを治めねばならなかった。これを「場所請負制」という。

 

クナシリ・メナシの戦いと蝦夷地の帝国主義化

そして御用商人たちは極めて厳しい交換比率でアイヌ人と物々交換をした。それだけではなく、超低賃金で彼らに労働させて利益を上げ、さらにはアイヌ女性に対する暴行も絶えることはなかった。こうしたことがたまりにたまった結果アイヌ人たちは蜂起し、和人商人ら71名を殺害するまでになったのだ。

蜂起の中心となったのが、根室半島からみて北側の沖合にある国後島や、対岸のメナシだったため、これは「クナシリ・メナシの戦い」と呼ばれる。そして国後の首長が和人からもらった酒を飲んで亡くなり、その義理の妹までも和人にもらったものを食べて亡くなったという。アイヌ人からすれば、かつてシャクシャインも和人に毒を盛られたという民族的記憶があるため、真偽はともかく自分たちの親分一家が毒殺されたとなると、それが発火点となって蜂起したというのは当然の成り行きかもしれない。

しかし彼らは組織的に抵抗したわけでもなく、烏合の衆だったこともあり、そこに松前藩が動いてアッケシ、クナシリ、そしてこのノッカマップの首長たちに取り調べをさせ、重罪とみなされる者たち37名を、ここで処刑した。

このようなアイヌ人の蜂起があった三年後に根室に来航したのがラックスマンらだったのだ。幕府が「反日分子」としてのアイヌ人がロシア方になびくのを恐れたことは言うまでもない。そしてその後は蝦夷地の「帝国主義化」が定着した。帝国主義というと欧米とアジア、アフリカ、中南米の関係かと思いきや、江戸時代なりの資本主義システムが存在し、アイヌの松前藩に対する隷属関係が解消できぬまま搾取され、男性は低賃金労働者として、女性は慰安婦として連れ去られたという事実から鑑みると、それは「日本版帝国主義」といえるだろう。

江差追分とアイヌー「江差の五月は江戸にもない」?

道南日本海側に江差という港町がある。松前藩の御用商人だった近江商人たちの拠点として大いに栄えたこの町は、ニシンが大量にやってくる漁港(第一次産業)でもあり、それを加工する基地(第二次産業)でもあり、交易(第三次産業)の地でもあった。まさに江戸時代の「第六次産業」の拠点だったのだ。今なお通りには往時の繁栄を残す商家がずらりと並び、家々の梁の太さがその富を象徴している。さらにここから本州の日本海側各地まで伝わった民謡「江差追分」発祥の地でもあり、夏祭りには豪華な山車が町を練り歩く。

町役場に隣接する江差追分会館・江差山車会館では往時の繁栄が再現されているが、そこの資料の中で驚いたのは、アイヌの民族衣装、アットゥシを着て公演する人がいたことだ。江差町のホームページによると、

追分踊りの始まりは地元の伝承によれば、古くはアイヌのメノコを集めて踊らせ、松前の殿様のお目にかけたのが最初といわれる

とのこと。「だれ」が集めたのか、メノコ(女性)は望んでいったのか、望まないままに連れていかれたのかが気になる。また同館に展示されていた江戸時代の風俗画を見ると、ニシン漁場で働かされているのはなぜかアイヌ人ばかりだ。一連の流れから見て、この町の繁栄を支えたのも、アイヌ人を踏み台にするという前提があったのではなかろうか。それだけでなく、立場は異なれども本州からやってきた「ヤン衆」と呼ばれる季節労働者も酷寒の地で体を壊し、命を落としたはずだ。ファノン曰く、

ヨーロッパの福祉と進歩とは、ニグロの、アラブの、インド人の、黄色人種の、汗と屍によって打ち立てられた。

江差でも、根室でも、松前でも、箱館でも、蝦夷地における発展はアイヌ人や下級労働者の汗と屍によって打ち立てられたのだろう。「江差の五月は江戸にもない」というかつての繁栄を謳歌したこの町のキャッチフレーズにはもろ手を挙げて賛同できない自分がいる。

 

北方領土はグラデーションエリア?

車は日本国内で日本人が活ける最東端、納沙布岬に到着した。自衛隊の車両があちこちに見える。北方領土の歯舞諸島は目と鼻の先に平べったく横たわっている。お盆ではあるが吹く風が体に染みる。この岬の広場は北方領土返還の拠点「北方館」、元島民の心の拠り所となった「望郷の家」、政治だけでなく歴史、民俗学、生物学など様々な分野から北方領土を紹介する「根室市北方領土資料館」などが軒を連ねる。特に根室市北方領土資料館や北方館では、近代における日露関係の変遷が学べる。

思うに明治時代までの日本は「国境」という概念に乏しかった。例えば薩摩藩にとっての琉球王国、松前藩にとっての蝦夷地はどこに国境があったのかはっきりしない。近代にいたるまで少なくとも東アジアはこうした「グラデーション」のなかで生きてきた。ペリー来日直後にロシアのプチャーチンが長崎に来て開国を要求し、翌々年結ばれた日露和親条約によって今の「北方四島」が日本領と明確化された。さらに樺太に至っては日露両国民の雑居を認めた。しかし日本史上初めての国境策定条約はこれだったのだ。

続いて1875年の樺太・千島交換条約では樺太がロシア領、千島列島全体が日本領になるが、両地域に住んできたアイヌ人は三年以内に国籍をロシアにするか、日本にするか選ばねばならなかった。先住民を全く無視して国境線を引いたり引き直したり交換したりしていたのだ。ちなみに北方館ではこの時の条約文が残されていたが、フランス語が正文とされていたのが興味深い。ロシアも日本も帝国主義としては「先輩格」フランスーファノンにとっての本国―の後塵を拝していたことが見て取れる。

そして1905年の日露戦争の講和条約、ポーツマス条約によって日本は北緯55度以南の南樺太を領有することになるが、1945年の大戦末期にソ連が日本に参戦し、樺太全土および北方領土まで占領された。樺太では日本人虐殺が、北方領土では日本人の北海道への強制送還が行われ今に至る。

「右翼祭(?)」の納沙布岬で思うボーダー・ツーリズム

ただこれらの資料館で中心になるのは「和人時代」である。アイヌ人の痕跡はなぜか目立たず、戦後から現在にかけての北方領土がどうなっているのか、知ることはできない。ちなみに根室市役所には日本で唯一、「北方領土対策部」を設置している。

展望台から目の前の寒々とした海の向こうを眺めると、「国境」という言葉が浮かび上がる。と同時に、ここは少なくとも日本にとって国境ではなく、あの歯舞の島々も、その先の色丹、国後、択捉まで日本、ということになるので「国境とは思ってはならない海峡」なのだろう。 

海岸沿いには「還せ北方領土」「呼び返そう 祖先が築いた北方領土」「返せ全千島樺太 北の防人」などと、右翼団体が建てた石碑が立ち並ぶ。まるで「右翼祭」だ。この空間で日本とロシア(ソ連)との間にありながら完全に抜け落ちているものがある。言うまでもない、アイヌ人の存在だ。例えばアイヌ人の団体がここに「還せアイヌモシリ」「呼び返そう 祖先が暮らしたアイヌモシリ」「返せ全アイヌモシリ、全千島樺太と北海道」などという石碑を建てたら引き倒されないだろうか。

観光学には「ボーダー・ツーリズム」という分野がある。国境を超える、または国境を見に行くマイナーなツアー様式をさすのだが、90年代半ばに中朝、中ロ国境の吉林省琿春(フンチュン)という町に住んでいたころ、そこは朝鮮との行き来もロシアとの行き来も極めて制限されていた。ある時国境に案内したフランス人が興味深そうに言った。「シェンゲン協定によって国境など関係なく往来するEUから来た自分からみると、ここは全く車や人の往来が見られず不思議だ。国境の意味があるのか?」「国境」とは閉じるものだと思っていたのだが、国境は両国を「つなぐ」ものだと彼は考えていたことに、逆に驚いた。

ひるがえって目の前の「目に見えぬボーダー」を見ながら、彼のいうことを反芻した。「国境は分ける。だけど国境はつなぐ。」

同時に歴史的に国境というコンセプトは日本人にとっては近代文明の産物で、本来ここはアイヌモシリ(人間の住む大地)以外の何ものでもないことを確認し、北西を目指した。

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