松江VS松山、仁義なき戦い? | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

松山と松江

ソウルの街を歩いていると、「ここは東京でいえば〇〇だな」と、いつも東京と比べている自分に気づく。同じように松山を歩くときはいつも「これは松江でいえば○○だな」と、生まれ故郷の隣町、島根県松江市と比べ、「松松対決」が繰り広げられているのに気づくのだ。

たとえば松山城を見れば、松江城のほうが天守が高いことに気づく。そして幕末に建てられたこの松山城天守に比べ、江戸時代初期に建てられた松江城天守のほうが歴史もある。しかし櫓など、重文指定の建造物は松山城に軍配が挙がるし、連立式天守という珍しい様式も貴重である。

また、道後温泉に行けば、豪勢でありながら威厳を保つ道後温泉本館というアイコンには圧倒されるが、その周辺は雑居ビルやくたびれ果てた旅館などが雑然と並ぶ。道理で道後温泉の写真というとあの本館以外見たことがないと納得した。一方、小川の両岸に遊歩道を整備し、湯けむりの中をそぞろ歩ける、松江郊外の玉造温泉のほうがはるかに温泉街としての雰囲気において優れていることに気づく。しかしお湯そのものの泉質は源泉かけ流しの道後の湯のほうが循環させて利用する玉造の湯よりもはるかによい。

とはいえ玉造の湯を発見したのは大国主命の相棒、少彦名(スクナビコナ)命とされるが、このコンビが出雲から道後にやってきたとき、少彦名が瀕死の状態になった。そこで大国主命が瀬戸内海の向こうの別府からパイプライン(?)かなにかでお湯を引いて少彦名を蘇生させたのが道後温泉という。二つの湯は神々の湯としても縁があるのだ。

 

「坊っちゃん」でこき下ろされる松山

明治時代にそれぞれの町を訪れ、町を有名にした人物というと、松江はラフカディオ・ハーンこと小泉八雲、松山は夏目漱石だろう。前者は松江に前近代的な日本のこころを見出し、それを甘美かつ幻想的な英文で世界に知らしめた。ハーンの批判の対象は生まれ育った欧米であり、それを無批判に取り入れる明治日本だった。

そして後者は松山に前近代的な遅れと垢抜けなさを感じ、露悪的なまでに松山を茶化した。漱石にかかれば正岡子規が「春や昔 十五万石の 城下哉」と詠んだこの文化の香りあふれる松山も、次の通り田舎の代名詞として形無しである。

県庁も見た。古い前世紀の建築である。兵営も見た。麻布の聯隊より立派でない。大通りも見た。神楽坂を半分に狭くした位な道幅で町並はあれより落ちる。廿五万石の城下だって高の知れたものだ。こんな所に住んでご城下だ抔(など)と威張つてる人間は可愛想なものだ…

さらに松山の人々の性格についてもその舌鋒は容赦しない。

大方田舎だから万事東京のさかに行くんだらう。

こんな卑劣な根性は封建時代から、養成した此土地の習慣なんだから、いくら云って聞かしたって、教へてやったって、到底直りっこない。(中略)どうしても早く東京へ帰って清と一所になるに限る。こんな田舎に居るのは堕落しに来て居る様なものだ。」

前近代的なものを完膚なきまでに否定する。これに松山市民は怒るどころか、「坊っちゃん列車」に市内を走らせ、「坊っちゃん団子」を観光客に売り、道後温泉本館には「坊ちゃん湯」を設け、「坊っちゃん泳ぐべからず」の木札をかかげて「聖地化」する。さらに坊っちゃんエクスプレスに坊っちゃんスタジアムまであり、もしかしたら近代初の「町の聖地化」はこの松山から始まったのではなかろうかと思うほどだ。

くさされても、それをネタとして立ち上がる松山の人々には、他にはない割り切りとたくましさ、打たれ強さを感じる。山陰・松江の人なら「よそ者にはわしらの良さや歴史はわからんけん」といって陰にこもりそうだ。

 

茶の湯VS俳句

私の中で勝手に「文化的ライバル」となっている松山の町を歩いていると、松江にあってここにはない「あらさがし」をしてしまう。その代表が茶の湯の文化である。私は松江の城下町から数十キロ離れた田舎町で生まれ育ったが、実家には日常的に薄茶を点てる習慣がある。というのも19世紀初めの松江藩主、松平治郷(はるさと)、通称「不昧(ふまい)公」と呼ばれる茶人大名の影響が領内の隅々までいきわたったかららしい。

子どもの時に我が家の庭の剪定をしていた植木職人さんに、祖母が薄茶を点てると、職人さんは作法などにはこだわらず茶碗を両手で回してズズッと音を立てて「あー、うまい」とすすっていたことを昨日のことのように覚えている。抹茶というと構える人が少なくない中、旧松江藩領では薄茶への敷居が高くないのだ。そしてそれは松江の文化となり、明々(めいめい)庵、菅田(かんでん)庵という不昧公による茶室が残った。茶の都は和菓子の町でもあるので、「山川」、「春日」など、銘菓も多い。そういえば1989年に行われた地方博は、「松江菓子博」であった。私も帰ると、まず祖母の部屋で薄茶をいただき、荷を下ろす。

 

松江の茶は松山の俳句

こうした目に見えない茶の文化が、松山ではさほど目立たない。しかし逆に松江の茶の湯に匹敵する、目に見えずとも人々の心身に染み付いた精神文化が松山にはある。それが俳句だ。まず、あちこちに「俳句ポスト」なるものを見かける。どうやらこの町はただの観光客を「にわか俳人」にする雰囲気がある。「だれでも手軽に」句を詠んでしまうこの町の空気は、1998年に「俳句甲子園」を生み出し、全国の若き俳人たちの憧れの地にもなった。

さすがは子規だけでなく高弟の高浜虚子、河東碧梧桐を輩出し、瀬戸内海を挟んだ西隣の山口県防府で生まれた放浪の無季自由律の俳人、種田山頭火が死に場として選んだ松山だけある。近世日本に形成された文化遺産として、茶の湯と双璧をなすものが俳句であろう。そしてその地方伝播において特筆すべきものが、松江と松山ではなかろうか。

松江の不昧や松山の子規らの功績は、単に茶の湯や俳句という「芸事」に大革命をもたらしたことだけでない。二度とないかもしれぬ出会いを大切にする思いを一幅の茶にこめた茶の湯と、同じく二度とはない瞬間を五七五の音節にこめた俳句。表現様式は異なれども、季節の移ろいを胸に今を生きていく道を開いた先人たちの心は、百年、二百年経った後にも地元に人生哲学として根を下ろしている。

 

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