谷根千…漱石の跡をたどって | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

西日暮里から千駄木へ

 私が西日暮里に住んでいた十数年間、最寄りの中等教育機関は開成学園、最寄りの高等教育機関は東京大学だった。JR西日暮里駅を出て道灌山通りを右に行くか、左に行くかで人生が決まるというジョークがある。左(西)に行けば100mほどで開成中学および高校だ。この東大入学率日本一を誇る学校から道灌山通り、不忍通りから言問(こととい)通りの坂を上ると東京大学まします本郷である。そしてそこから南下すれば永田町や霞ヶ関、丸の内といったエリートコースの道である。

 一方で西日暮里駅を出て右(東)に行けば行くほどアジア系外国人の姿が目立つようになる庶民的な雰囲気が濃厚になってくる。二階建ての一階部分が作業場、二階部分が生活の場、といった職人の町を、さらに東に進めば、山谷という日雇い労働者とバックパッカーの集住地である。私の場合は駅から右に曲がり、600mほどのところで留まっていた格好になる。

 さて、西日暮里駅からゆるい上り坂を進んだ小高い丘のうえにまします開成学園のルーツは、1871年、淡路町にできた共立(きょうりゅう)学校である。そして1878年に初代校長となったのが、原敬暗殺後の首相を務め、その後も蔵相として手腕を振るった高橋是清だった。さらにそこで彼に英語を学んだのが正岡升(のぼる)、つまり若き日の正岡子規であり、子規がその後東大予備門(後の一高、現在の東大教養学部)に入った時、同級生で最も意気投合したのが塩原金之助、後の夏目漱石である。

 私もこのあたりの坂道をしばしば逍遥したものだ。

 

 谷根千―鴎外と漱石と猫と

 都心の地形は山の手の下町から形成されるが、特に山の手は丘と谷が連続する。「坂道は大地のシワのようなもの」と言った人がいる。額にしわができるように、大地も隆起沈降の結果高低差ができ、そこに道を通すわけだから「大地のシワ」を上り下りしようとしているようなものなのだろう。

 開成学園前の歩道橋を渡り、「大地のシワ」の隆起にそって歩くと、マスコミにもよく出てくる商店街の谷中銀座である。谷中および根津、千駄木に残る古い町並みを「谷根千(やねせん)」と呼び、訪日客であふれる観光地にもなっているが、谷中銀座には地域の人々が共同で世話をする「地域猫」が石段に寝そべっているのをよく見る。餌をくれる人間を恐れるでもなく、呑気にあくびしている猫などを見るたびに、漱石の家に迷い込み、インスピレーションを与えた「名前はまだない猫」を思い出さずにはいられない。ちなみにどうやら谷中の地域猫には名前がつけられているようだ。

 坂を下り、谷中銀座を過ぎるとじきに不忍通りである。道沿いに進むと根津神社が現れる。豪華絢爛な権現造の社殿や一面のツツジ、乙女稲荷の小さな赤い鳥居群などで知られるこの神社だが、実は漱石だけでなく明治の文豪として彼と肩を並べる森鴎外もしばしば訪れ、小説の構想を練ったりしたという。境内の坐るにちょうどいい岩があるが、これを「文豪憩いの石」と呼ぶのもこのためである。

猫の家

鴎外といえば、団子坂を登りきったところに森鴎外記念館がある。彼は1892年から、この地に観潮楼という屋敷を建てて住んでいた。なるほど、彼が気晴らしに根津神社まで歩いていたのもよく分かる適度な距離だ。そして観潮楼完成以前は団子坂の駒込学園前交差点で左折した住宅街の中に住んでいたというのでそちらに向かいたい。

鴎外記念館から100mもいかないうちに、右手に「青鞜社発祥の地」という表示が見えてきた。1911年に日本初の女権拡張主義者による文芸誌「青鞜」は、この地で産声を上げたのだ。

坂を登り切り、信号を左折すると、鴎外の旧居の跡地は「猫の家」として小さな猫の銅像があるではないか。実は鴎外の住んでいたこの家は、その後1903年から1906年まで英国留学から帰国した後の漱石が偶然住んでいたところでもあるのだ。漱石はこの事実を知らなかったが、鴎外のほうが先に知ることとなったらしい。「猫の家」というのはもちろん、漱石がその家で「吾輩は猫である」を執筆したからである。

 この時の彼は東大の教授だったが、この家を訪れてきた弟子や仲間、周りの人々との交流を諧謔あふれる文章で書かれている小説である。この革新的な小説は1902年に子規が病没し、その愛弟子の高浜虚子がその跡を継いだ俳句雑誌「ホトトギス」に1905年に掲載されたものである。ある意味、漱石を小説家としてデビューさせたのはかつての親友、子規たちだったともいえよう。

 

「諧謔」の功罪

 猫が人間社会を風刺するこの諧謔小説には、色々な受け取り方がある。ただ忘れてはならないのは、漱石がこれを執筆しはじめたのが1904年の後半、つまり日露戦争中であったということだ。

満洲や日本海などで血みどろの交戦が行われていたころ、千駄木のこの家を舞台に繰り広げられる物語は悠長なることこの上ない。人生の機微や人間の本質を衝く言葉であふれているとはいえ、しょせんは絶対戦争に巻き込まれることのないことを前提に日常生活を過ごす人々と猫の安穏たる物語である。それはあたかも激動の今を必死に生きる私たちなどお構いなしにのんびり過ごす谷中の猫のようなものである。

 なお、漱石には良くも悪くも「諧謔」という文体でもって風刺する傾向があるが、その代表作が「吾輩は猫である」であり「坊っちゃん」である。その中でも「猫」を持ち出したのは偶然迷い込んだという以上に、彼の性格と戦略が見て取れる。近代においてアジアが欧米に戦争で飼ったためしはない。しかし日露戦争という国家存亡の危機にあった世相を「どこ吹く風」とばかりに、総力戦となっていた戦時下の世の中に超然として立ち向かう方法論として「猫」を担ぎ出したのが彼の戦略である。

日露戦争にストレートに反対した著名人は他にもいた。内村鑑三はキリスト者として「非戦論」を唱え、与謝野晶子は女として弟の徴兵を諫める「君死にたまふことなかれ」を歌った。漱石の「猫」はその諧謔版ではなかろうか。「吾輩は虎である」「吾輩は獅子である」では正面切った反戦と分かる。「吾輩は猫である」というこの脱力的表現こそ、のらりくらりと逃げることも可能な漱石一流の諧謔味ではなかったのだろうか。そしてこの諧謔は後に彼の名を貶めることにつながっていく。(続)

 

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