渋沢栄一の創った東京-明治神宮、東京国立博物館、帝国ホテル、一橋大学、そして飛鳥山 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

明治神宮

原宿駅前の神宮の鳥居をくぐると喧騒が静まり、うっそうとした木々に包まれる。その数実に10万本。ここが東京に残された武蔵野の原生林と誤解するのは東京人の中にもいるほどだが、実はこれは全て日本中から寄贈された、完全なる人工林なのだ。

ちなみに時の総理大臣大隈重信は見栄え重視で、伊勢神宮や日光東照宮のように太くて高い杉などの針葉樹の植樹を主張したが、現場では低木の照葉樹のなかに杉をアクセント的に植えることを主張した。針葉樹より照葉樹のほうがCO2を吸収するからである。逆に言うと、大正時代の東京はそれだけ近代化に伴う郊外に悩まされていたのだ。

ところで初詣のころには参拝客で長蛇の列をなすこの神宮だが、だれを祭神とするか、東京人でさえ知らないことも少なくない。ここは明治天皇および皇妃を祭ったものだ。明治天皇は京都人であり、遺言もあったため、崩御した1911年当時、宮内庁は京都・桃山に御陵を造営する予定だった。

それに異を唱えたのが渋沢だった。彼は娘婿だった当時の東京市長や自らが結成した東京商工会議所の会頭らとともに、明治神宮を東京に移す運動を始め、近代化のけん引力のシンボルだった天皇の魂が、崩御したのちも近代的な首都である東京にとどまり「帝都」と「臣民」を守ってくれるよう、人々に信じさせることに成功したのだ。

とはいえ彼は明治天皇の魂の眠る精神的支柱であり続けた神宮内苑よりも、健全な文化とスポーツの殿堂となった神宮外苑の開発に力を注いだ。その百年後にはコロナ騒動のため「湿気った線香花火」のようになった東京五輪ではあるが、その会場として選ばれたのが外苑であったことは、彼の「百年計画」の正しさを物語っている。

東京国立博物館

訪日客の中でも欧米人が東京に行けば、東京国立博物館(東博)を見学するのが定番コースである。その国を理解するにはその国の美術品が体系的に揃っているところを見るのが早道だからだと思うかららしい。つまりロンドンで大英博物館、パリでルーブル美術館、ニューヨークでメトロポリタン美術館、台北で故宮博物院を訪れるような感覚で、東京ではここを訪れるのだろう。

そもそも東博は「帝国博物館」として明治初年に開館し、1881年には英国建築家コンドルの設計でレンガ造り二階建ての本館が完成した。その後、1900年に「帝室博物館」として改称したときは、おりしも大正天皇ご成婚で沸きあがっていたご時世である。そこで当時の東京商工会議所を代表して渋沢が音頭をとり、寄付金を集めたのだ。

東博のゲートをくぐると左手に見える明治風の洋館「表慶館」こそ、渋沢が寄贈を呼び掛けたものである。英国建築家コンドルの弟子、片山東熊の設計により、欧州に肩を並べるほどの風格を持つこの表慶館が開館したのは、呼びかけから9年後の1909年だった。その後、1923年の関東大震災では師のコンドルによる本館は崩壊したが、弟子による表慶館は無事に残った。「出藍の誉れ」というべきか、日本の建築技術が欧州の建築技術に勝るとも劣らぬことを証明したのである。

ちなみに現在みられる本館は渋沢の死後、1938年に完成した「三代目」だ。鉄筋コンクリート造りという、当時最先端の耐震技術を備えながらも、外観は和風とアジア様式が混在している。「和洋折衷」というより「東西折衷」を体現するこの建築は、建築技術において近代化をマスターしたと確信した日本が、西洋の技術をもって大アジア主義を表現しているのだ。

 

帝国ホテル

東京には数多くのホテルがあるが、国賓級の客をもてなしてきた歴史が最も古いのは、やはり帝国ホテルである。ホテルのある日比谷は、北に皇居、西に霞が関の官庁街、東に銀座の商業地、南は新橋駅という交通の要衝に位置する。

そしてホテルの隣接地には西洋の風習にならって政財界の名士たちが婦人を伴い欧米人と舞踏会を催した鹿鳴館が建っていた。発起人の井上馨外相は「不平等条約の改正」を目標とした国際親善のつもりだったのだろうが、「国際親善ダンス」で解消するような問題ではないと悟り、「鹿鳴館時代」が終わりを告げていた1890年に日本を代表するホテルとして開かれたのがこの帝国ホテルだ。

帝国ホテルの開業と運営に関しては渋沢も関わってきた。鹿鳴館運営が事実上失敗に終わった時、またもや井上馨が渋沢と大倉喜八郎(ホテルオークラ設立者、喜七郎の父)に声をかけたというのだ。人々が政治家と実業家の癒着に眉をひそめるようになるのは、大正時代からであり、明治時代はまさに「オールジャパン」で国益を追求することで国民を守り、民間を活性化することで国力を高めるのが優先される時代だった。なお、1925年につくられた彼の胸像がホテル内に残っている。

 

一橋大学

訪日客数が初めて三千万人を超えた2018年、日本政府は観光施策を総合的に考える、観光分野におけるエリートを養成する「観光MBA」を設立した。そのうち、西日本では旧帝大の流れを受け継ぐ西日本の雄、京都大学に、一方の東日本では東大でも早慶でもなく、一橋大学に置かれた。この大学は幕末に薩摩藩から密航してロンドンに留学した森有礼が、渋沢の支援のもとに1875年、銀座に開学し、後に東京外国語学校と合併して神田一ツ橋に移転した商法講習所をルーツとする。

観光業というは、官より民が元気でなければならない一方、いざというときには官が民を支援しなければ成り立ちにくい。このような産業のリーダー的存在を輩出するには、国民の繁栄を常に考えて行動する士大夫のあり方を説いた「論語」と、精神論だけでは実業は成り立ちえない現実を克服するための「算盤」とのバランスが大切であるという「渋沢精神」を受けつぐこの大学がふさわしいといえよう。

 

飛鳥山

都内で渋沢の後をたどると、都心部か、でなければ東急沿線のような「ブルジョア路線」になりがちだが、後に彼が居を構えたのは北区の飛鳥山である。江戸時代から花の名所として知られてきたが、1901年から30年にわたって住み続けたのがここだったのだ。今は滅多に見えないが、広重の「名所江戸百景」に描かれる飛鳥山には、向こうに男体山、女体山に峰が分かれた筑波山が見える。彼がここを終の棲家とした原因の一つも、そこからこの絶景が楽しめたからに他ならない。現在は渋沢史料館で彼に関する資料が展示されているほか、空襲で焼け残った晩香楼や青淵文庫など、落ち着いた品のある洋館も残されている。

ところで1875年、王子駅前に王子製紙の前身、抄紙会社が誕生した。紙幣や契約書、書籍、切手など、あらゆることに洋紙が必要となると気づいた渋沢の事業である。私は至近距離の西日暮里に住んでいたが、「王子製紙」の「王子」が地名であることは、この博物館に来て初めて知った。現在園内には地味ではあるが区立「紙の博物館」があり、ここが近代日本の用紙発祥の地であることを物語っている。

他にも東京には彼の足跡は数限りない。なにせ、500の会社を興し、600の社会事業を手掛けた男だ。東京で彼の影のないところを歩くのは至難の業ではなかろうか。

それではそろそろ舞台を変えて、彼を生んだふるさと、現在の埼玉県深谷市を訪ねてみたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

PRその1

8月後半から9月後半までの1か月間、地理、歴史、一般常識、実務の直前対策をzoomで行います。他にはない、試験だけのための対策ではない、通訳案内士としての現場まで重視した独自の講座の詳細はこちらからどうぞ!http://guideshiken.info/?page_id=230 

 

PRその2

 この紀行文の訳しにくい個所を集めて英語、中国語、韓国語に訳していく「日本のこころを訳し語る講座」を、以下の日時に開催いたします。

英語 8月2日19時半から21時半

中国語 8月9日19時半から21時半

韓国語 8月23日19時半から21時半

初回は無料ですので、ご関心のある方はぜひともご連絡くださいませ。

二次面接対策だけではなく、日本文化を翻訳するには最適の講座ですので、皆様のご参加をお待ちしております。

 

PRその2 

オンラインサロン「ジモティ」に聞け!

―地理・歴史・一般常識はzoomで楽しもう!


・通訳案内士試験対策に疲れた方
・試験対策で気になった地元の人(ジモティ)の生の声が聞きたい方
・自分の地元を通訳案内士受験生たちにアピールしたい方
→こんな方々は地元の受験者・合格者に聞け!

パーソナリティ:英中韓通訳案内士 高田直志
日時:毎週木曜と日曜の22時から22時30分(無料)


視聴・参加するには…
対象:通訳案内士試験を受験される、または本試験に関心のある全ての方。
事前にこちらからご登録ください。(登録・視聴は無料です。)
https://secure02.red.shared-server.net/www.guideshiken.info/?page_id=109