岡倉天心「茶の本」をもって常磐線の近代をゆく   グローバルな港町生まれの天心 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

岡倉天心「茶の本」をもって常磐線の近代をゆく 

 グローバルな港町生まれの天心

 岡倉天心の「茶の本」は、1906年にニューヨークの出版社から英文で発行された。内容は米国で行った日本文化紹介の講演を「茶道」を軸にまとめたものであるが、その年は日露戦争で「白人の大国」ロシアが「黄色人種の小国」日本に敗れたころでもあった。そのためそれ以前に出された新渡戸稲造の「武士道」の他にも、刀ではなく文を、茶を愛する平和な日本の心を詩的で格調高い英語で紹介した作品として、特に欧米の知識層の間で読まれていった。その背景にあるのは、彼のグローバルな生い立ちにある。

 1863年生まれの彼が格調高い英文が書けたのは、当時すでに開港されていた横浜の貿易商の子として、日本語の読み書きを学ぶ前に英語教育を受けていたことによる。晩年には英文で戯曲まで書けるほどのネイティブ的文学感覚があったのも、そのおかげだろう。今でいえば横浜で生まれ育って幼稚園からインターナショナルスクールに通ったようなものだ。

 そして十一歳にして開学したばかりの東京外国語学校、二年後には後に東京帝大となる東京開成学校に入学した。十八歳で卒業して文部省に勤務したという経歴からして、エリート街道まっしぐらであることが分かる。そして職場では米国のお雇い外国人フェノロサと日本美術調査の仕事に従事するが、その時にネイティブ感覚の英語を駆使して通訳をこなした。フェノロサの文化財保護という仕事は天心なくしては成功しえなかったろう。

 

上野の東京美術学校時代

 その後、1889年に帝国博物館理事に任命され、翌年東京美術学校の事実上の初代校長となった。帝国博物館は後に東京国立博物館に、東京美術学校は後に東京藝術大学となるわけだが、それらはみな上野の山にあった。私はそこからほど近い西日暮里に住んでいたため、しばしば散歩がてらに訪れた。

 特に藝大には天心の足跡があちこちに残る。正面玄関の左に、城の櫓門のような白い漆喰の壁に黒瓦が特徴的な建物が見える。天心の後に学長を三十年以上にわたって務めた正木直彦を記念して1935年に建てられたこの櫓門は、年輪の美しい木造の柱がエンタシスをなしており、天心の若かりし日にフェノロサとともに古美術調査に赴いた法隆寺回廊のエンタシスをほうふつとさせる。

 正門すぐの藝術情報センター内には、薬師寺東塔の水煙のレプリカが飾られていた。これはフェノロサと岡倉天心が奈良の文化財を調査した時に、フェノロサが廃墟寸前となったこの寺の至宝をみて、「凍れる音楽(frozen music)」と感嘆したことによるものだ。確かに天平時代に天を舞っていた飛天を瞬間冷凍したかのような表現は言いえて妙である。さらにキャンパスの奥まったところには天心の銅像が若きアーティストたちを見守っている。

谷中の日本美術院時代

 もともと東京美術学校は日本の美術や工芸を保護し、発展させるための養成機関として開かれた。しかしその後、「脱亜入欧」を目指して邁進しようとする政府は同校を洋画中心にしようとしたため、日本美術の再興を目指す天心は校長職を辞職した。

そして藝大から徒歩10分ほどの谷中に日本美術院という研究所兼アトリエを開くと、彼を慕う横山大観、菱田春草、下村観山らもその後を追った。現在、その跡は「岡倉天心記念公園」という児童公園になっており、小さな六角堂の中には金色に輝く天心の胸像がある。「都落ち」というには「都」から近すぎる距離だが、グローバルな西洋美術に対して自らのアイデンティティを示さんとする日本画家たちが、静かな気迫を胸に筆を振るった「梁山泊」となったことは言うまでもない。

 この「梁山泊」は後に茨城県と福島県の県境、現北茨城市五浦に移る。そこで今回の「茶の本」の旅は上野から常磐線を下り、時には寄り道しながら北茨城市五浦を目指そうと思う。