香炉峰の雪と小石川後楽園 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

香炉峰の雪と小石川後楽園

 珍しく東京が雪の薄化粧に覆われた冬の日、小石川後楽園を訪れた。東京に名園数々あれど、小石川後楽園ほど遠き中国文化への憧れが強いところも稀である。そもそも「後楽」とは、清原さん(清少納言)と同時代人にして、北宋の忠臣范仲淹が、為政者としてあるべき心構えとして「先憂後楽」、すなわち世の中の人が心配しだすより先に危機を感じ取り、それが過ぎ去って世の中の人がみな安心した後に自分も安心せよ、という儒教道徳からきている。園内の涵徳亭美都屋というレストランには、この言葉が大きく書かれた掛け軸もみられる。

 しかし清原さんのあこがれた中国文化とは、儒教道徳ではなかったろう。このレストランのすぐ近くに、高さ10mもない築山「小廬山」がある。江西省にある廬山とは中国を代表する仙境であるが、江戸時代前期に京都から江戸に下り、代々幕府に仕えた朱子学者の林羅山が、この築山が廬山に似ているということでこのような名をつけたという。日本には国内の詩情あふれる光景を、憧れの国に例えることがよくある。近代に飛騨山脈を「日本アルプス」、木曽川を「日本ライン」などと名付けたことと同様のメンタリティといえよう。 

清原さんも漢詩などを通してその名をよく聞き知っていたが、それに関するエピソードが興味深い。宮中に雪が降った時、お慕いしていた中宮定子に「清原さん、香炉峰の雪景色ってどんな感じ?」と問われた。すると清原さんは窓と御簾を全開にしたら、宮様はにっこりされた。(「少納言よ、香炉峰の雪いかならん」 と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば、笑はせ給ふ。)

香炉峰とは、廬山の中でも雪の名所として知られた場所だ。唐代の代表的漢詩人白楽天の詩に「香炉峰の雪はすだれを上げてみる(香炉峰雪撥簾看)」とあるので、そのことを思い出した清原さんは窓とすだれを全開にしたのだ。すると「我が意を得たり」とばかりに宮さまもにっこりされたとのことだ。

このころ宮さまは女子高生ぐらいの年齢、清原さんはアラサーだったらしいが、平均寿命や結婚適齢期などを加味すると、宮さまは二十代半ば、清原さんは四十代ぐらいではなかろうか。今でいうなら真子さま、佳子さまと四十代の女性文学者というような感じか。身分も年齢も違うのに、以心伝心で伝わるその信頼関係が素晴らしい。宮様にとっては絶対に行くことのできない憧れの廬山を夢見、その世界観をシェアできる唯一の「仲間」として白羽の矢を立てたのが、他でもない、清原さんだったのだろう。そして期待通りの受け答えをしてもらえて、ご満悦だったに違いない。

後の宮さまは幸せうすい日々だったというが、それを知っていながらもお慕いする宮様のほとばしるような感性とエスプリを、青春の1ページとして書かないではいられなかったのだろう。

ところで後楽園の小廬山を過ぎると西湖の堤を再現したものや、徳川光圀(水戸黄門)の招きで水戸藩に身を寄せていた明朝末期の文人、朱舜水による石の太鼓橋「円月橋」、そして小廬山からのぞむ池の中の蓬莱島など、ここはネーミングだけでなく芳醇な中国の文化を凝縮したかのような世界観である。

清原さんにせよ、水戸黄門にせよ、近代以前の日本の文人が憧れた中国という存在を、今の中華人民共和国に見ることは難しい。銀座や新宿、浅草などで見る中華系の観光客や住民に対して「憧れの念」を持つ現代日本人は少数派だろう。そしてそれらはむしろ後楽園のような庭園のなかに純粋な形で「瞬間冷凍保存」されているのかもしれない。

雪の小廬山を見ようとしてこの庭を訪れたが、古代から近代にいたるまでに日本の文化人の間で共有されていた「憧れの中国文化」は、今でいうとどのようなものか考えてみたところ、後楽園から近いところにそれがあることに気づいたので、春を待ってから訪れることにした。(続)

 

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