「徒然草」を覚えて鎌倉を歩く②「竹の寺」と老荘とソローと隠遁 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

「徒然草」を覚えて鎌倉を歩く②「竹の寺」と老荘とソローと隠遁

鎌倉・報国寺。この寺が日本史の教科書に出ることはおそらくないだろうし、鎌倉市民以外でこの寺を知る人も少ない。しかしミシュランガイドでは、堂々と三ツ星をとっている。何が欧米人、特にフランス人訪日客をそこまで引き付けるのか。それは境内に生い茂る、よく整備された竹林である。よってここは「報国寺」よりも「竹の寺」という名で通っているようだが、鎌倉には他にも「あじさい寺(明月院・長谷寺)」、「苔寺(妙法寺)」など、寺よりもそこに生息する植物の名のほうが、通りがいいものも少なくない。

 さらには妻のほうから夫に「三行半(みくだりはん)」を突き付けることができなかった時代に、北鎌倉の東慶寺には今でいうならDVに耐えかねたご婦人方のシェルターがあった。ここにかくまわれると三行半を公式に書くことができたということから、「縁切寺」という名のほうが通っているくらいである。「名は(たい)を表す」というが、「徒然草」116段に「寺の名前を考えるとき、学識を駆使してこだわりすぎた名前というのは、ユニークさも度を過ぎていたり、妙に奇をてらっていたりする。命名にあたっては素直さが一番。(寺院の号、さらぬ万の物にも、名を付くる事、昔の人は、少しも求めず、ただ、ありのままに、やすく付けけるなり。この比は、深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞ゆる、いとむつかし。)」というものがある。

だから「報国寺」という国家意識丸出しの名前よりも「竹の寺」のほうが素直でよい。この竹林を歩きながらも、吉田兼好を想った。兼好は本来浄土信仰の僧侶だが、「隠遁」という響きのせいか、道家思想的な様相が色濃い。彼の存命中にこの竹の寺を訪れたかいなかは定かではないが、三世紀・魏晋のころの隠遁の元祖「竹林の七賢」の故事を知っていただろう彼も、竹林を愛していたことだろう。

「竹林の七賢」は言論弾圧が横行した混乱期に、世を嘆いて竹林で琴を奏で、酒を飲みつつ、政治批判から「清談」と呼ばれる老荘思想に基づく哲学談義まで、口角(こうかく)(あわ)を飛ばし自由に語り合った。さらには半裸で過ごし、親の名を呼び捨てにし、親の喪にも服さなかったという。身なりを整え、親孝行を大切にする儒学という、当時の支配的な思潮に真っ向から逆らったのだ。それは体制がよしとする価値観を否定し、自然のもとで暮らす道を選んだ60年代アメリカのヒッピーに通ずる。社会が求める人間像よりも、自然な自分のあり方を模索したヒッピー同様、老荘を愛した隠者の兼好も、竹林を愛したはずだ。

アメリカといえば、日本でいう幕末の頃に「アメリカ版吉田兼好」がいた。「ウォルデン-森の生活」で知られるヘンリー・デイビッド・ソロー(Thoreau)である。湖畔の森に丸太小屋を建てて自給自足の生活を二年あまり続けた彼は、戦費にあてる人頭税の徴収や奴隷制度に反対し、投獄されたこともある。しかし暴力に訴えず、自分の良心が受け入れられないようなことに対し、たとえ法律であっても反対するその姿勢は、マハトマ・ガンディーやキング牧師の「非暴力不服従」という運動のやり方にも影響を与えた。

日本人は竹林に心癒やされるが、中国人は竹を曲げても決して折れず、反発してくるしたたかなものでもあると見る。そしてそれは、森と湖で思索を深めた社会運動家のソローにも相通じる。それらに比べると、生きづらい世の中には隠遁しながらも世間づきあいをしながらも最大限人生を謳歌する日本の兼好は、抗うこと自体よりも、これ以上は譲れない「自分らしさ」を大切にすることを重視しているように思える。ある意味、周りと協調しつつもしたたかに自分の道を歩むのだ。彼が政治的なことに距離を置きがちな日本人に愛されてきたのはそのような点だったのかもしれない。

竹の寺を逍遥しながら、高校生の頃から「隠遁」に憧れていたことが思い出された。今思うと単に受験勉強からの逃避だったのかもしれない。その意味が、ある時にはしみじみと胸に染み、しかし大部分は「ツッコミどころ満載」であると思えるようになったのは、平均寿命の折り返し地点を過ぎ、文章を本格的に書き始めてからである。

竹林を抜けると空気が突如世俗に戻った。やはり兼好のような隠者には竹林が似合う。