「平家物語」をもって瀬戸内海を歩く②須磨・一ノ谷 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

「平家物語」をもって瀬戸内海を歩く②須磨・一ノ谷

 「平家物語」の中でも世に知られている場面が、瀬戸内海における一ノ谷、屋島、壇ノ浦の三つの海戦である。その場面をみな歩いてみたが、いずこも陸地は変わりすぎており想像できぬほどだが、瀬戸の海はそれらをなにごともなかったかのように波に揺れていた。

 三つの海戦のはじめとなった一ノ谷は、場所が特定されていない。リゾート地でもある現神戸市須磨のあたりというので、訪れてみたところ、確かに南は砂浜、北は急峻な崖で、海を知り尽くしていたはずの平氏には絶好の要害だったに違いない。

須磨寺に車を停めた。駐車場は清水の舞台のように、崖から張り出して造られており、階段を降りると境内だ。ここは一ノ谷の戦いの際には源氏の陣があったところとされる。一ノ谷の戦いの名場面は、なんといっても鉄壁の要塞に囲まれて安心した平氏を、単独行動で70騎ほどの手下を連れて崖を馬で駆け下り、蹴散らせたヒーロー、義経の活躍である。牛車に乗り、筆墨硯紙を持ち詩文を愛する、手弱女(たおやめ)ぶりが平安の貴公子なら、馬にまたって刀剣弓矢を持ち、敵を倒す、益荒男(ますらお)ぶりを体現した東国武士。こんな才知に長けた武者が都じゅうの人気者になるというのは、美意識の180°転換だった。平氏のような「偽貴族」ではなく、木曽義仲ほど野蛮人ではない、まさに時代が待望していた新しいヒーローだったろう。

実は作者不詳の「平家物語」は史実に多少基づいたフィクションであり、キャラ設定がはっきりしている。義経はそのようなキャラに設定されただけかもしれない。それにしても「平家物語」作者は、武士としては「手弱女(たおやめ)ぶり」が裏目に出て、貴族としては「田舎成金ぶり」が匂う平氏の、一ノ谷における不様(ぶざま)さをこれでもかというほど書き綴っている。

 そんな平氏の中でも「キャラが立つ」人物が平(あつ)(もり)である。須磨寺で馬に乗って戦う二人の侍の銅像を置いた枯山水庭園がある。一人は笛をよくする線の細い十代の敦盛で、平氏の貴族性を体現している。蹴散らされた平氏から逃げ遅れた彼は、平氏から源氏に寝返った、もう一方の銅像、熊谷(くまがい)(なお)(ざね)に追い詰められている。

直実はこの貴族的な若武者の首をとって手柄を立てようと思うが、よく見ると我が子と同じ年ごろだ。「武士の情け」というか、どこかで戦場をさまよっているだろう我が子の面影と重なり、殺すに忍びない。しかし少年は名を名乗らぬまま、自分の首を討てば、だれもが自分のことを知っているから打てという。いじらしい。逃がそうと思うが、向こうから同じく源氏方の梶原景時がやってくる。あんな奴に討たれるくらいなら、いっそ自分が、と思い、涙を呑んで我が子ほどの敦盛の首をとると、形見として前の日にどこからか聞こえてきた笛がでてきた。世の無常を痛切に感じた直実は、戦が終わると浄土宗を開いた法然の下で出家し、敦盛が極楽浄土へ往生できるよう供養し続けて生涯を終えたという。

 「平家物語」は無念を抱いて亡くなった人が安らかに往生できるよう祈る「鎮魂の文学」である。敵の鎮魂を怠らないことは、日本各地で行われてきたが、海の向こうの極楽浄土に往生することを祈るのは、海の民たる平氏に特に顕著な性格だったらしい。

 車で明石海峡大橋を渡り、淡路島の西岸を走ると、夕方、瀬戸内海の向こうに陽が沈む。平氏もそこに西方極楽浄土を見たのかもしれない。そこには次の戦場、屋島があった。

 

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