上野から五浦へ―天心と大観
上野の東京国立博物館に三歳の息子を連れて行ったときのこと。本館一階で同じくらいの年の男の子の絵を見つけた。近代日本画の巨匠、横山大観の名作「無我」である。あどけない童の姿に「無我」という仏教の根本精神を投影した彼はこのとき29歳。「無我」とは、この世の善悪を決める「我」の存在を否定する。ありもしない自己の価値観に執着するから怒りや悲しみが生まれ、悩む。そんな「自己」などないことに気づけ、という教えであろう。
彼は幼いとき、まだ「自我」が生まれる前の幼児を、その「無我」の境地とみたのだろうが、大観はそのとき、未婚で子どもがいなかった。ちなみに我が子は一歳半のころから自我が生じ、三歳になった現在は自己主張のかたまりだ。育児をしたことがない明治男にとっては三歳ぐらいの子どもでも「無我」に見えるのだと思っていたのだろう。
博物館を出て東京藝術大学の前を通った。ここは明治期に官立の東京美術学校だったところだ。よってみると、キャンパスの中に六角形の東屋が見え、そこに奈良時代の装束に身を包んだ岡倉天心校長の銅像がどっしりと座っていた。この天平の装束は当校の制服だった。今でいうなら裃を着て通学するようなものであり、その復古主義は賛否両論だったという。それにしてもキャンパス内は他にも法隆寺回廊を意識したエンタシスの柱や、フェノロサが「凍れる音楽」と評した薬師寺東塔の水煙など、古代東洋を意識したものが目につく。
横浜生まれの日英バイリンガルの天心だが、世界をまわるにつれて西洋的なものと相容れない自分自身の精神的支柱に気づいた。その「東洋の心」、「日本の心」を形に残すべく、日本のアイデンティティに基づいた「日本画」をこの東京美術学校で推し進めようとした。しかし「読書」「湖畔」等で知られる黒田清輝や「天平の面影」等を描いた藤島武二らの西洋画教師の排斥に遇い、在職8年にして校長の座を追われた。
上野からの帰路、谷中で長安寺によった。ここは東京美術学校設立時に岡倉天心の盟友として西洋の技術を応用して東洋の仏教をテーマにした大作「悲母観音」を描き、完成の数日後亡くなった狩野芳崖の墓地でもある。ついでに近くの「岡倉天心記念公園」にも寄った。ここは美術学校を追われた天心が、日本画を志す横山大観の他、下村観山、菱田春草ら弟子を率いて活動拠点とした日本美術院の跡地である。今は六角堂の中に天心の黄金色の胸像がある。もっとも、息子は退屈なあまりシーソーやブランコといった遊具で遊んでいたが。
日を改めて日暮里から常磐線で水戸に向かった。このときも息子を連れて父子の二人旅である。水戸というと、勧善懲悪の時代劇として知らぬものはいない「国民的番組」水戸黄門を思い出す。また、日本人だけに愛される、逆に言えば訪日客からはほぼ受け入れられない「国民食」納豆の産地でもある。つまり国際的というよりもきわめて「日本的」な色彩が強い町である。そしてこの町最大の近代文化人が横山大観であった。
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