芸能の島、佐渡と対馬海流 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

芸能の島、佐渡と対馬海流

 佐渡は芸能の島である。そしてこの島の数々の芸能は、暖流対馬海流にのって西日本からやってきて、この島で独自の発達を遂げた。民謡「佐渡おけさ」も、源流は熊本県天草であり、それが北前船に乗って山陰経由でこの島に渡り、根付いたという。

 島で唯一の重伝建に指定されている宿根(しゅくね)()地区の古民家で泊ったときのこと。この集落は港町として、また造船の町として発展した。宿のいろりの間の上の神棚には出雲大社の大国主命と美保神社の事代(ことしろ)主命(ぬしのみこと)の御札が納められていた。なぜ遠く出雲の神々が祭られるのか、と思いながら、地元の小学校を民俗資料館としている「佐渡国民俗博物館」に行ってみた。そこでの最大の見ものは地元の船大工らが復元したという往時の巨大な千石船だった。その姿は、船大工や船乗りにとっては出雲もさほど遠い場所ではなかったのだろうと思えてくる。陸地を歩けば遠くとも、海流は人間と歌と神々を乗せた船を運んでくれたのだ。

 佐渡は能楽の島でもある。石見銀山の開発をしていた大久保長安が、ここに赴任し、金銀山の開発を任された際、たいそうな能楽好きだったことから、それが島中に広がり、現在人口5万人あまりの島に現在30ヶ所以上の能楽堂があるという。ちなみに1300万人の人口を擁する東京都でさえ、能楽堂は10ヶ所ぐらいしかない。西国から海流に乗って伝わった能楽は敷居が高いと思われがちであるにもかかわらず、ここに根を下ろしたのは、一時滞在した一人の奉行の趣味だけではなく、この島の人々の心を打つ何かがあったからだろう。

 当初は(たきぎ)(のう)が行われるはずだったが、天候の具合で立派な屋内能楽堂で行われることになった。まばゆいほどの檜舞台は首都の能楽堂にも引けをとらない。しかし驚いたのは客席には固定された座席ではなく、折りたたみパイプ椅子が並んでいること、そして見学者たちも東京のようにスーツ姿や着物姿はほとんどおらず、ジーンズにTシャツにジャンパーといった、実にラフな出で立ちであることだ。さらに開会の挨拶で、紋付き袴の地元の有力者が冗談を飛ばし、話し中であるにもかかわらずいきなり橋掛かりの奥の楽屋から笛の練習の音が聞こえてきた。この島では能楽に対する敷居が極めて低そうである。

 その日の演目「熊坂」が始まった。すると先ほどの笛の奏者は、緊張のあまりか音が出ない。かすれたような音がしばらく、というよりも終わるまで続いた。しかし主役(シテ)はかなりの実力の持主で、そのちぐはぐさがほほえましい。能楽を数百年にわたって愛し、支えてきた人々の真摯な思い、そして上手下手とは異なる次元の「情熱の持続性」が確かに感じられた。

その前日に能の前座だけ見た神社では、檜舞台の前に運動会などで使われるようなテントが二張り並び、ビールのプラスチックケースに六尺ほどの板を乗せた簡素な座席だが、欧米系の訪日客も少なくなかった。宿根木でも訪日客を見かけたが、地元に伝わる伝統行事をアレンジして世界に発信した鬼太鼓(おんでこ)座を学びに来ていた各国の人たちだったようだ。

戦後、島民たちを指導して柿など商品作物栽培を指導するとともに人々の誇りを後世に伝えようとした山口県周防大島の民俗学者、宮本常一は、民俗学を過疎化しつつあった村々のために応用しようとした。インバウンドで地域再生をはかる今の限界集落にも色々と示唆を与えているように思えてならない。

 

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