目からうろこ、佐渡に伝わる「草の根」能 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

 厳島神社というと、水に浮かぶ神殿と、そこで行われる舞楽をイメージするのが一般的だが、あそこを歩いていると戦国時代に毛利元就が建てた水上の能舞台も見落とせない。満ち潮の際に行われる能を、観客は数十メートルの水面越しにみるという。舞台が行われていない引き潮の時でも、潮が満ちたときの様子を連想すると、自然の動きを取り入れた能舞台の発想に驚かざるを得ない。

 毛利元就に限らず、武将たちには能に魅せられた者も少なくない。信長が本能寺の変で倒れる前に、「人間五十年 下天(げてん)のうちを比ぶれば 夢幻のごとくなり」と、「幸若舞」の「敦盛」を舞って死んだというのは大河ドラマの世界だけかもしれないが、彼も能に魅せられたようだ。跡を継いだ秀吉も無類の能好きで、小田原攻めの時には陣内で能舞台をしつらえて北条軍に聞こえるように舞台を楽しんだり、文禄慶長の役の際には自ら能を舞い、諸大名に見せたりしため、諸大名もそれに合わせて能を学び始めたという。

 能を大成したのは観阿弥・世阿弥親子だが、彼らは当時「河原乞食」と蔑まれてきた。今でいうなら「住所不定無職」扱いの彼らを引き立てて、能を「ブランド化」させたのは、パトロンの足利義満だった。そこで「ヴェールをかぶった女性的な美しさ」、「見終わってからもしみじみと伝わってくる奥深さ」を「幽玄」と呼び、上流階級の人々の美意識にうったえていったのだ。

このようにブランド化された能だからこそ、天下人たちをも魅了し、江戸時代には徳川 二代将軍秀忠の時代に、能と狂言は「能楽」として武家の式楽となったのだ。私を含めて能楽堂に初めて足を運び、「お能」を「鑑賞させていただく」人々が感じる敷居の高さは、この歴史的なブランドに他ならない。しかし足利義満、観阿弥・世阿弥親子らがブランド化したころ以前の「申楽(さるがく)」はもっとざっくばらんな庶民的なものだったという。

そのオリジナルの在り方が見られるのが、芸能の島、佐渡である。人口1300万人の東京における能楽堂の数は十数カ所。人口100万人あたり一か所である。一方人口5万人の佐渡には能楽堂が三十数カ所。島民千数百人に一か所、能楽堂があるなど、ここ以外にはあるまい。以前からこの島に興味があったが、2017年夏に行ってみて目からうろこが落ちた。

夕方に草刈神社に向かうと、社殿下の立派な能楽堂の前に、運動会で使うテントが二張りしつらえてある。そこに観客がぎっしり座っていたが、その面々が両極化していた。町内の人々と、アメリカ人のツーリストである。アメリカ人観光客は、特に伝統芸能に興味のある層らしい。テントのなかの折りたたみいすでは足りず、我々は瓶ビールのプラスチックケースに板を渡した「簡易ベンチ」に座って見学した。その雰囲気は、子どものころから故郷出雲の祭でよく見てきた神楽そのものである。そこには全く敷居がない。もちろん無料である。

この島の素顔の能がもっと見たくて、翌日は島でもかなり本格的な設備を誇る金井能楽堂に向かった。実は当日、別の神社で薪能が行われる予定だったが、当日雨天のため中止されたのだ。この島は同時に複数個所で能をやるという、恐るべき場所なのだ。ホテルからシャトルバスに乗り、会場に着く。地方の体育館のような雰囲気で、入口の受付で一人千円の入場料を支払い、ビニール袋をもらって靴を入れる。ドアを開けると立派な能舞台が目に入る。能舞台は体育館やホールの代わりには使用できない。この島でかくも本格的な能楽専用の舞台が維持されてきたと思うと、やはり驚嘆というほかはない。

一方、観客席はパイプ椅子である。予算を使うところと使わないところをきちんと分けているのが分かる。集まった人々はみな顔見知りのようで、Tシャツにジーンズの若者、ジャンパー姿の中年男性、JAの帽子をかぶった高齢者など、実に和気あいあいとした雰囲気だ。写真撮影さえ可能である。これも昭和の終わりごろ、故郷の体育館で演劇を見たときの雰囲気をほうふつとさせる。

時間になり、世話役らしい男性のあいさつが始まったが、堅苦しいものではなく冗談交じりである。何もかも東京などの「お能を拝見させていただく」というお高く留まったところを見せない。昭和のころの故郷に帰ったかのようなデジャヴさえ感じる。

 舞台が始まった。驚いた。技術のレベルが高いからではない。鼓や笛の音がうまく出ていない人がいるのだ。いや、下手だと批判しているのではない。檜舞台に立って音がうまく出なくても、みんなが暖かく見守る、その懐の深さに驚いたのだ。皮肉ではない。ここでは舞台の上に立つ人も、下で見る人も、地元で子供のころから舞台をみてきて、目はこえている。しかしみな共同体の仲間なのだ。そこに島民の間の絆を感じた。

 舞台を見ながら、私はこの島における能の歴史を思い出していた。将軍の寵愛を受けてきた世阿弥も、六代将軍で暴君として知られた足利義教の時代になると、理不尽にもこの島に流された。島流しにあった彼がこの島の人々に能を教えたかは定かではない。

この島に能を広めたのは、江戸時代初期に佐渡奉行として金山開発に尽力した大久保長安と言われる。その後、能の魅力のとりことなった島民たちは、村ごとにこれを守ってきた。それは本土で大名や貴族といった一握りの特権階級の楽しみとして広まったものとは全く異なる。島民たちの審美眼の高さには驚かざるを得ない。

 目の前の島民による能を見ていると、これまた故郷で年末にチャリティーでやっていた第九の合唱を思い出した。津々浦々で行われているだろう年末の第九の合唱が、この島では能だったのかもしれない。見ているうちに、うまい、下手などということなどどうでもよくなってきた。それよりも数百年にわたって先祖が楽しんできたものを守り、それを子々孫々まで伝えていこうという人々のパワーに、技術のよしあしなどよりももっと大切なものがあることに気づかされたからだ。まさに「目からうろこ」だ。

 「風姿花伝」は人前に立つ芸人の効果的な見せ方にこだわって書かれた実用書である。同時に、長い間芸を志す人々だけではなく、様々なジャンルのプレゼンをする人々の指針となってきた。しかしそれはあくまでプロ向けであるため、「プロ志向」の本書が見落としていたことを、この島で見つけた。それは、能とは同時代のコミュニティをつなぐものでもあり、先祖と自分たち、そして未来の子孫までをもつなぐものとしても作用するということだ。

まさに「草の根」の能が生き続けるこの島で、「風姿花伝」の目指す「花」や「幽玄」などという洗練されたコンセプトとは無関係な、泥臭くとも温かい能の世界があることを知り、なにか満たされた気持ちで翌朝早くジェットフォイルに乗って新潟港に向かった。