道南と日本の帝国主義 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

道南と日本の帝国主義

 「アイヌモシリ」とは、「人間の住む地」という意味のアイヌ語であり、江戸時代の本州側の人々はこれを「蝦夷地」と詠んだ。そのなかでも、渡島(おしま)半島を中心とする道南はことに「和人(シサム)」の移住が最初に進んだ地域だ。道南最大の都市、函館に到着してまず向かったのは「北方民族資料館」だった。周囲は和洋折衷のイギリス領事官や赤レンガの中華会館、鹿鳴館と見紛(みまご)うばかりの擬似西洋建築「旧函館区公会堂」など、「ハイカラな港町」そのものだが、資料館の中はそれとは打って変わり、和人や外国人が闊歩するはるか以前のアイヌ民族の民俗資料のみならず、オホーツク海やベーリング海峡沿岸の諸民族が着用してきた衣服などが展示されている。ここでは函館を「北海道へのゲートウェイ」としてのみならず、「北方世界への結界」として見よといわんばかりである。中でも対岸貿易で入手した清朝高官の龍袍(ロンパオ)や、和人との交易で手に入れた着物の生地を織り込んだ法被(ルウンペ)、和人の作った小刀(マキリ)(さや)(つか)にアイヌ文様を彫りこむなど、明らかな混淆(クレオール)文化が見られるのが興味深かった。

今はすっかりその面影も薄れて見えるとはいえ、山や川、海岸とその地名にはアイヌ×和人のクレオール性が見て取れる。例えば大沼国定公園では、爆発して崩壊した「渡島富士(駒ヶ岳)」の一部がソフトクリームの先端のようにつんと上を向く姿を湖面に映し出している。ここで「ポロト」という土産物屋を見た。「ポロ」とは「大きい」、「ト」とは「沼」を意味するアイヌ語である。つまり「大沼」という呼称は「ポロト」の意訳なのだ。

 一方、日本最北端の藩、松前は、アイヌおよび本土との交易をする和人の拠点として栄え、その名残りは今なお町の随所にみられる。北海道唯一の「小京都」的雰囲気を保ち、街並みも白と黒を基調とした落ち着いた(たたず)まいで統一しているこの城下町では、かつての武家屋敷と町人の家屋を再現した「松前藩屋敷」というテーマパークもあり、北国らしい針葉樹林に囲まれた本格的な石組みを誇る池泉回遊式庭園もある。この町はどうやらアイヌと共存した混淆性よりも江戸や京都の一部でありたいという中央志向が強いのかもしれない。

 松前城の資料館にはアイヌの12名の酋長の絵が飾られていたり、本丸の隅には17世紀に松前の搾取と圧政に対して立ち上がったアイヌのリーダーのシャクシャインがだまし討ちに遭って殺された際の耳塚が残っていたりする。資料館のもう一つの見ものである松前の繁栄も、政治的不平等と経済的搾取による異民族統治の「おかげ」であったことを、意図的に垣間見せているかのようだ。ちなみに藩の配下で商業活動を独占したのは近江商人である。図式化すると、「悪徳代官」の下で「悪徳商人」が地元民をいじめる、「水戸黄門」そのままの世の中だったのだ。近代日本の帝国主義の発祥の地はここだったのかもしれない。

 函館に戻ると空港に隣接した湯の川温泉の源泉かけ流しの湯に浸かった。脱衣所ではタトゥーを入れた訪日客の温泉利用を開放すべきかいなかという番組がしていた。アイヌ女性は明治期に入ってから、伝統的な入れ墨の習慣を「文明」の名の下で禁じられたが、我々の先祖がやってきた「固有文化の強制終了」に関する言及は全くなく、インバウンドという「金になる」ことに対してのみ「異文化理解」を求めつつある風潮を感じ、19世紀末に制定された「北海道旧土人保護法」的感覚は今なお健在であると思わずにはいられなかった。