前衛半島―下北半島
書を読んでから旅に出た。函館港から1時間半、津軽海峡を渡ると、夜下北半島の大間に着いた。名物のマグロ丼を食べて地酒を飲んでいるうちは、鄙びた漁港に来たという思い以外はなかったが、翌朝車のアクセルを踏むや、この半島は瞬く間に「異界」となっていった。
アップダウンとワインディングを進み、到着した仏が浦は、真っ白な凝灰石が何十メートルもの断崖絶壁となってつながる圧巻なほどの奇岩怪石である。昔から人々は霊的なものを感じさせるこれらの屹立する岩々を諸仏に見立て、極楽浄土を見た。自然物を「仏」とみなすところに神仏習合が見られる…などという理屈はどうでもよくなるほどの異界だった。
しかしそこはまだ異界の一丁目にすぎず、車を走らせてニホンザルを二度ほど見ながらむつ市経由で恐山に登ると、本物の異界が迎えてくれた。硫黄の匂いが鼻をつく。「三途の川」の向こうにはカルデラ湖の宇曽利湖越しに成層火山の恐山がそびえる。「異界」から「霊界」となった。寺の門をくぐると、ますます「霊界度」は高まる。左右に小屋が見える。なんと境内に温泉が湧きだし、入浴してから参拝できるのだ。そこは私の大好きな源泉かけ流しの硫黄泉である。普段ならのんびりとくつろげるのだが、さすがに霊界ではくつろぐ気にもならず、あくまでガンジス河で沐浴するつもりで身を清めて地蔵堂に向かった。
慈覚大師円仁が建立したという地蔵堂を拝んでから周りを見渡すと、草木も生えぬ丘の上に何体ものお地蔵さんが立ち、風車がカラカラと乾いた音を立てて回る。言うまでもなく水子地蔵だろう。ここは赤ちゃんを亡くした、あるいは亡くさざるを得なかった親だけでなく、死者に出会える場所なのだ。中でも軍服を着て頭に手ぬぐいをまいた青年の地蔵「英霊地蔵尊」などは、この地から戦地に行かされ、帰らざる人となった若者の霊に会うために建てられたものであり、「人は死ねば山さ行ぐ」という地元の信仰の表れだろう。
霊界を後にして走ると、北海道そっくりの大規模農業の開拓地になった。ここが戊辰戦争で会津を追われた藩士たちが定住し、おそらく「身を捨つるほどの祖国はありや」と自問しながら流刑地のような酷寒の凍土を血のにじむ思いで開拓した旧斗南藩である。彼らの墓地には「義の思い―つなげ未来へ」という会津若松商工会議所の幟が風にはためいていた。
官軍に潰された「義」を証明すべく開拓した農地を南東に向かうと、六ケ所村だ。核廃棄物処理場を受け入れ、一見豊かに見えるこの村だが、何よりも目立つのが太平洋に向かって回転する何十もの風力発電所の群れだ。さっきはあの世で水子地蔵の前の風車を見た後に、ひとたび事故が起これば青森県どころか北半球が住めなくなるとも言われる核廃棄物を埋めたこの地で、ぐるぐる回る風車。超現実主義にもほどがあるこの半島にどっと疲れが出た。
さらに南下し、ようやく半島を抜け出して三沢に着いた。ここは詩人にして歌人にして劇作家にして映画監督にして…とにかく分野をまたいで活躍した前衛芸術家、寺山修司の故郷である。夕方、彼の記念館に滑り込んで見学しながら気づいた。異界と霊界と戊辰戦争の「流刑地」と、北半球が無くなりかねない施設の上に成り立つ、ありとあらゆる不条理がモザイクのように重なるこの半島こそ、寺山の前衛的な世界そのものだったのだ。