三陸「復興」国立公園から「復興」の字が消える日 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

 

三陸「復興」国立公園から「復興」の字が消える日

石巻の南はリアス式海岸の美しさでしられる牡鹿(おしか)半島である。そしてこの半島の南には古くから現世利益の神として名高い島、金華山が浮かぶ。東日本大震災の震源となったのもこの島の東である。震災から半年後、ここを訪れようとしたがフェリーなどの便はまだ復旧していなかったのであきらめた。この島も被害を受けたが、震災前に定期便があった石巻や女川の港が壊滅状態になったからである。
 私はレンタカーで牡鹿半島の付け根を横断して石巻から女川(おながわ)に向かった。女川の漁港近くに近づくとがたがた道になる。道の両側は瓦礫さえなく、一面の荒れ地があるだけだった。しばらくは気付かなかったが、よく見ると家屋の基礎工事のコンクリートがあちこちに見える。津波はここの家屋まで根こそぎにしたのだ。震災前は東北有数の漁港だった女川漁港に近づくと、がたがた道の両側に津波ではぎ取られた壁や屋根を通して向こうが丸見えになっている家屋やビルが増えてくる。まともな家など一軒もない。
 我々はカーナビで「佐藤水産」と入れて目的地に向かった。カーナビは機械的な声で「目的地付近に到着しました。案内を終了します。」というだけだが、「案内」されたところには大きな倉庫のようなもの、というより倉庫らしい鉄筋の骨組みに、所々屋根や壁らしきものがくっついている建物が数棟あるだけだ。佐藤水産とはなにか。あの津波がこの街を襲った日、地元企業佐藤水産の常務が中国人研修生に津波の被害に遭わぬよう、安全な小高い丘に避難させてからもう一度家族を救うために山を下りたが、それきりになったという記事を読んだ。この自己犠牲の「美談」は中国でも大きく取り上げられたことがどうしても気になり、その「現場」を訪れたのだ。
 佐藤水産らしき場所を見下ろす小高い丘に上がった。この坂道を佐藤常務は中国人研修生たちを連れて上り下りしたのだろうか。そしてそこで廃墟に向かって数珠を手にかけ般若心経を唱えた。読経が終わり、しばしの間廃墟を見ていると、自然と姿勢をただし、万葉歌人大伴家持の歌がでてきた。「海ゆかば水漬(みづ)(かばね)、山ゆかば草生(くさむ)す屍」。とめどなく流れる涙で最後まで歌えなかった。
 地図によると南三陸金華山国定公園(現「三陸復興国立公園」)の美しい海沿いを通って、この町から南三陸町に行けるはずだった。しかしまだ道路が復旧していないらしく、かなり大回りして南三陸町に向かった。この町に行った理由は、あの日ここの防災センターに勤める遠藤さんという結婚を半年後に控えた享年24歳の女性が、センターが津波にのまれる間際まで避難勧告の放送をし続けたという、その場を見たかったからだ。

南三陸町に入る前に、南三陸金華山国定公園に指定されている本来の美しいリアス式河岸が数十秒見られた。しかし町内に入るとここは平地面積が広いからか女川以上に廃墟が続くように見える。カーナビに「防災センター」と入力しても出てこない。一面の瓦礫の原に目立つのは、半年前まで地元の老若男女が集ったであろう大型スーパーの建物だ。それ以外にはあまり視界を遮るものがほとんどなく、お目当ての防災対策庁舎のあらわになった赤い鉄骨はすぐに分かった。

壁も屋根も全く残っておらず、丸裸になった建物の跡。入口があったであろう所に立つと、「防災対策庁舎」のプレートが残っているだけで、壁があったはずのとこからは一面の廃墟が、屋根があったはずのところからは初秋の青空が広がっていた。入り口付近には遠藤さんを祀る祭壇がある。半年後に結婚を控えていたというなら、いまごろ挙式だったのかと思うと胸が痛い。千羽鶴などが置かれていたので合掌して般若心経をあげた。
 うず高く積み重なった瓦礫の下、アスファルトの割れ目から雑草がたくましくはびこっている。周りをしばらく歩いてから車に乗って山側に向かうと、震災や津波などとは関係なく、青々としている。「国破れて山河あり 城春にして草木深し」という漢詩を思い出したが、詩的になるには、この光景はあまりにも悲しく、痛ましい。あの日までは風光明媚なリアス式海岸をほこっていたが、今後しばらくは瓦礫と廃墟のイメージが先行するだろう。そして復興後も、これらの勇気ある人々の行動は風化させてはならない。

その後、ここは三陸「復興」国立公園の一部となった。しかし「復興」の二文字がなくなり、単なる「三陸国立公園」になるほどまで復興を遂げることを願わんばかりである。