困難に立ち向かう支倉常長の帆船 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

困難に立ち向かう支倉常長の帆船

日本におけるキリシタンの中心地は九州であったが、九州から日本列島を横断した先にある奥州にもその影響は及んでいた。戦国時代末期における奥州の覇者、伊達政宗は、実力はあったものの家康よりも26年、秀吉よりも30年生まれるのが遅かった。風雲急を告げる戦国の世において、これら二人の覇者からみると息子世代であることは天下を取る上で大きなハンディキャップとなった。結局政宗は秀吉の小田原攻めに際して豊臣方の軍門に降り、さらに関ヶ原の戦いでは徳川方に属して奥州における旧領を奪還しようと戦ったが思うようにいかず、また幕府からの恩賞ももらえなかった。つまり奥州の覇者として名をとどろかせた彼も、中原の覇者の足元にも及ばなかったのだ。

江戸幕府が開かれると仙台藩は幕藩体制というシステムの歯車の一部分となるが、政宗は別の方策で捲土重来を目指した。その方策とはスペイン国王フェリペ3世に使節を送り、スペイン―日本の窓口として仙台藩を選ぶよう要求することだった。これが実現すれば仙台藩は「東の出島」になっていたかもしれない。おりしもこのころ震災のために三陸が大津波に襲われた。政宗はスペインとの交易によって震災復興を考えた節もある。

そしてその「慶長遣欧使節」の副使として派遣されたのが支倉常長である。スペイン側の協力で日本初の本格的な交易船を建造し、太平洋と大西洋を往復した。ようやくたどり着いたスペインやローマでは、常長は豪華な着物、刀を帯び、スペインの有力者に送ることでコネクションを広げるだけでなく、交易品のサンプルも配布し、交易船と宣教師の受け入れがあり、治外法権まで認めると触れ回った。さらにスペイン国王の信頼を得るために国王の前で洗礼を受け、貴族に列せられた。スペインのコリア・デル・リオという村には支倉一行の侍の子孫が数多くおり、苗字はハポン(Japon)というのだそうだ。

が、結局スペインは日本との交易に動かなかった。スペイン領フィリピンが、太平洋交易の拠点としての座を日本に奪われぬよう反対したためでもあり、また日本で禁教令が厳格化したからでもある。一行は出発して七年後、失意のまま帰朝した。外遊中に禁教令が厳格化したため、スペインでキリシタンとなった常長は活躍の場もなく、帰朝後二年で他界した。

 彼らが太平洋を往復した帆船、サン・ファン・バウティスタ号が1992年に石巻市の月浦に復元され、サン・ファンミュージアムとして公開された。ところが20年後の2011年3月におこった東日本大震災のために、被害を受け、船内の貴重な資料はその多くが流出した。

震災の半年後に訪れた際、震災でひび割れたアスファルト道路の坂を上っていくと、岸辺のミュージアムのガラスは割れたままで、帆船のマストも折れた痛々しい姿であったが、船体そのものに大きな損傷はなかった。400年前に太平洋を往復した日本初の大型帆船の実力を証明してくれているかのようであり、また震災という困難に傷だらけになりながら立ち向かおうとしているようにも見え、頼もしいかぎりだった。

その後慶長遣欧使節の資料はユネスコ世界の記憶に認定された。震災の5年後、装いも新たにしたサンファン館を訪れた。震災時の様子は目立たなくなってはいるが、傷を持ちながらも海外に雄飛しようとするこの帆船は、なお人々に勇気を与えているように見られた。