辛亥革命の揺籃(ゆりかご)横浜の孫文 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

辛亥革命の揺籃(ゆりかご)横浜の孫文

中華圏では「孫中山」として知られる革命家孫文は、日清戦争後と辛亥革命後の数年ずつ、日本に亡命していた。そのうち横浜華僑の支援を受けていたこともあり、この町に滞在していた。「孫文先生上陸の地」の石碑は、市内富岡の慶珊寺門前にたてられている。

そもそも横浜に中華街ができたのは、幕末に日米修好通商条約が結ばれ、欧米人が山手に住むようになった際、日本人と欧米人との間に入ったのが漢文と英語を駆使する広東人たちだったことに起因する。「買弁」と呼ばれた彼らの生活を支えるために、「三把刀(料理用の包丁、散髪用のはさみ、テーラーのはさみ)」を携えた人々が、故国と同じ生活ができるような空間を、山下公園と山手の間に造り、関東大震災や日中戦争、太平洋戦争時の空襲など幾多の苦難を経つつもそのつど中華街を再建してきた。

戦後は故国の政治状況により国民党支持者と共産党支持者に別れ、狭い中華街の中で「冷戦」を繰り広げていた。そうした中、訪米した市長が米国のChina Townの存在を知ると、帰国後この町をChina Townの直訳として「中華街」と呼ぶようになった。なお、横浜華僑の心のよりどころたる関帝廟は、幾度か焼失したが、冷戦後に「両岸」が彼我の政治的立場を超え、協力する象徴として1990年に再々再建された。

ところで十月十日は双十節、すなわち辛亥革命記念日である。横浜で辛亥革命百周年記念行事が行われるというので、行ったことがある。その時いつもと違うと思ったのは、中華街に入るや否や中華民国の「青天白日旗」の手旗を持つ人に何人も遭遇したことだ。
 そしていつもは関係者しか入れないように柵が施されている華僑・華人の学校、中華学院の敷地に入った。孫文が明治時代に創立させたというこの伝統と由緒ある学校だが、この日は校庭の上空には何百何千という小旗ぶら下がり、校舎には教室よりも広そうなサイズの青天白日旗が貼られている。また、ステージには「国父孫中山」の肖像が飾られ、革命百周年を祝う式典が始まった。その政治性には驚かんばかりだ。
 神奈川県日華親善協会や、自民党議員、亜東関係協会の代表以外の使用言語は台湾風中国語だ。スピーチ内容はみな、「国父孫中山」の偉業と、中華民国の正当性を称えるものであり、蒋介石を称えたりする自民党議員もいたりして、さらに「中華民国万歳万歳万々歳!」「日本万歳!」というのにはイデオロギー自体にアレルギーのある私は若干閉口した。共産党の世界的プレゼンスの前に、急速に目立たなくなりつつある「祖国」を盛り上げようとするあまり、横浜の地で百年間頑張ってきた華僑たち、そして「光復」後に国民党の支配を受けてきたという意識のある台湾人たちの存在が無視されているかのように感じたからだ。
 ただ、それとは同時に大陸の、あるいは台湾の革命を行った、神格化された「国父」としての孫中山ではなく、この街で過ごして大業を成した「おらが村の孫文」の一面がここでは見受けられた。私が興味を持ったのは、偉大な革命家「孫中山」ではなく、横浜の人間臭い孫文なのだ。大陸には大陸の、台湾には台湾の、そして横浜には横浜の孫文がいるのだ。
 ある意味虚構にも見える、横浜双十節の式典に参加し、逆にこの「横浜の孫文」の存在に気付いたと同時に、この小さな町の「両岸」の存在に気付いたのがなによりもの収穫だった。