立山信仰と生まれ変わり その2 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

 

 

 

立山信仰と生まれ変わり その2

 立山博物館を後西、次は落差350mという日本最高の滝、称名滝に向かった。称名とは「南無阿弥陀仏」と唱えることである。立山の神がイザナギであり、その正体が阿弥陀仏であるということから、この断崖絶壁の奥にある大きな滝を「称名」、すなわち阿弥陀仏に帰依するという意味の名を付けたのだろう。滝の音を聞いていると、念仏のようにも聞こえてくると同時に心から清められる気がしてきた。

 そこからバスで標高475mの立山駅まで戻り、ケーブルカーで標高977mの美女平まで一気に駆け上がった。さらに高原バスで23km、約50分間かけて標高2540mの室堂に向かう。途中標高1930mの弥陀ヶ原あたりから雨が降り、残雪が見えだした。晴れていれば阿弥陀佛の住む極楽浄土が広がっているはずであった。そもそも室堂平自体が仏様の立つ蓮台だというが、それにしても奥大日岳や浄土山、薬師岳など、佛教に関する地名が多い。つまり仏国土が日本国の山の上にあるとのだ。近代人は日本の山にアルプスを見て「日本アルプス」と見立てたが、それ以前からここでは日本の山々を極楽浄土と見立てていたのである。

 訪日客だらけの室堂で食事をとってからトローリーバスで立山を突き抜けた。霊山の腹を貫くトンネルを掘ったのは、近代の科学技術である。私はなんとなく腹に痛みを感じた。1934年当時すでに富山県は全国一の水力発電量を誇っていたが、国立公園法が制定され、この一体は中部山岳国立公園となり、自然破壊はとりあえず食い止められたかに見えた。

 戦後は神武景気の1950年代、関西地方は慢性の電力不足に悩まされ、工場も毎週のように停電したため、経済発展にも支障をきたしていた。そこで関西電力が開発したのが黒四ダムである。総工費513億円のうち1/4を世界銀行からの借款でまかなった一大国家プロジェクトではあったが、黒部川で開発された電力は関西電力のものとなり、地元富山県はエネルギーに関する恩恵は少なかった。さらにダムの工事用トンネルを長野側から掘ったため、観光ルートとして不利な富山県側からおきたのが立山黒部アルペンルート開発構想だった。

 立山の3.7kmのトンネルを越えると、湖だった。青めのう色の人造湖、黒部湖を大観峰から眺めながらあることに気づいた。これは正に庭ではないか。日本庭園の三つの要素である木、水(黒部湖)、石(山々)が全て目の前に広がっている。庭は自然の風景を縮景したものだが、その原型が正にこれである。特に洞窟を越えると新しい風景が開けてくるのが庭の楽しみ方の一つであるが、立山のトンネルを抜けて見えた風景は、正に庭であった。

 そこからロープウェイで7分間、渓谷の上を移動しながら黒部ダムについた。殉職者171名を出したこのダムは、文字通り地獄と極楽が隣り合う立山そのものだった。ダムの上を歩いて渡りきり、最後にトローリーバスに乗った。立山から下りることが新しい自分に生まれ変わることならば、この最後の16分間のトンネルは母親の産道に他ならない。山々が山腹に穴を開けられたのは、我々をこの世に生み出してくれるための帝王切開だったのだ。

そんなことを考えているうちに生まれ変わった私は長野県側の扇沢駅に着いた。この山の霊性を訪日客にも伝えたいが、ほぼ興味を示さない。ガイドは自分が紹介したいモノと客が見たい者のギャップがあるのはつきものだ。そんなことを痛感しながら東京に戻った。