立山信仰と「生まれ変わり」その1 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

 

立山信仰と「生まれ変わり」その1

 新潟県から富山県に入り、しばらくすると、南側に神々しいばかりの山々が見えてきた。シベリアからの北風に対峙するこの山々は、まるで盾のようである。「立山」の語源は「盾山」なのではないかと思わせるほどだ。

 立山はおそらく本州日本海側で最大の訪日客の訪問地となっているが、その先鞭を付けたのは、東京や大阪、京都などの大都市に飽きた台湾人である。彼らだけでなく、我々が立山に遊んだ日は、日本人を含めてほぼ全ての人が標高約2500mの室堂地区における雪の大谷ウォークを楽しみにしていた。確かに高さ十数メートルの雪を積み重ねた壁を歩くのは楽しい体験だろう。ただし私の立山に対する期待は修験道の霊山としての立山にあった。

 修験道とは融通無碍にしてつかみ所のない宗教・信仰である。それは自然信仰をベースに密教の行法を取り入れたもので、山川草木それ自体が崇拝の大将で、特に山々を仏に見立てるのが特徴である。そして山々を佛国土ととらえ、入山するとこれまでの自分が死に、山々を歩くことで清められ、本尊である山々と自分が一体化し、新しい自分となって下山するというのが基本概念である。それが最もよく実感できるのが立山らしい。

 立山の富山側の入口は立山信仰の拠点、雄山神社および隣接する立山博物館である。3000m級の四季、いや朝昼晩でも表情を変え、人の命さえ奪う山々は本来近づいてはならない畏敬の対象であった。これを霊峰として開いたのは奈良時代の越中国司、佐伯有頼である。ある日、白鷹を伴って立山に入り、熊を仕留めた。熊は山奥の洞穴に入り込んだので、彼も中に入ると、矢を射られた阿弥陀仏と不動明王がおり、この山を開いて衆生を救う拠点とするように言ったという。それが立山信仰の起源である。

 立山信仰は「立山曼荼羅」と呼ばれる一幅の絵によって広まった。そもそも「曼荼羅」とはサンスクリット語で「全宇宙の本質」を表わすというが、日本人には四角形と円で幾何学的に描かれたその宇宙世界はピンとこなかったらしい。そこでそれを身近な山川草木でわかりやすく表わしたものが立山曼荼羅であり、それを展示するのが立山博物館である。

立山曼荼羅の下部はこの世、すなわち人間界を表わす。向かって左は人々が赤鬼や青鬼から地獄の責め苦を受けている。そして上には阿弥陀如来等、諸仏が雲に乗って助けに来てくれようとしている。注目すべきは背景に立山連峰が描かれ、左上には針山に追われる人々が見えることだ。この山は20世紀初頭まで登ったものが不明とされた(つるぎ)(だけ)である。伝説では弘法大師がわらじ数千足を費やしても登れなかったとも言われるが、奈良時代に修験者が剱岳に登ったらしく、明治時代に陸軍測量官観測目的で登頂したときには8-9世紀の(しゃく)(じょう)と鉄剣が発見されたともいう。

 江戸時代にはこの曼荼羅を持って各地に薬売りが宣伝隊として渡った。そして地獄と極楽が両方ある立山に行けば、一度死ぬこととなり、そこで神仏そのものである清らかな空気、水、霧などのなかで、立山の自然そのものがもつ「気」を受けて生かされることを全国に伝えた。今で言うと立山曼荼羅はドローンで撮影した富山県の観光用4K動画のようなものかもしれないが、このおかげで仏教における寺院や仏壇、神道における神社や神棚などの役割を果たす場が、山そのものであることが知れ渡るようになったといえよう。