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前回は、先代旧事本紀に記されているニギハヤヒの事績の一部についてご紹介しました
今回は、「古史古伝と古社から読み解くニギハヤヒの履歴 その1」という点について、掘り下げて紹介していきたいと思います。
さて、みなさんは11月に皇居で行われている鎮魂祭がニギハヤヒを鎮める儀式だったと知っていますか?
なぜなら、ニギハヤヒは歴史から消された日本の皇祖だからです。
このことは、記紀や先代旧事本紀で、異なる表記で天神であることが、しっかりと記されれていますよね。
でも、ニギハヤヒのことを知らない人は実に多いのも事実です。
なぜなら、ニギハヤヒはその存在が意図的に隠された可能性がある人物だからです。
ニギハヤヒが登場する古史古伝には「古事記」「日本書紀」「先代旧事本紀」があります。
カタカナで書くとニギハヤヒですが、漢字で書くとそれぞれの書物で表記が違います。
● 古事記 ~ 邇芸速日命
● 日本書紀 ~ 饒速日命
● 先代旧事本紀 ~饒速日命、天照国照彦天火明饒速日命、天火明命、天照国照彦天火明尊、胆杵磯丹杵穂命
記紀では、とてもシンプルに表示されているのに対して、先代旧事本紀では多くの異名を持って語られています。
もう一度、記紀では、ニギハヤヒがどのように登場するのかをおさらいしておきますね。
① 古事記でのニギハヤヒは、神武東征のとき、長髄彦が奉じる神様として登場しています。
つまり、人ではなく神様として描かれています。
② 日本書紀では、塩土翁(しおつつのおじ)がイワレビコ(後の神武天皇)、下のような情報を伝えます。
東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐船に乗って、飛び降ってきた者がある。その飛び降って来た者は、饒速日というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる
天照大神から十種の神宝を授かり、天磐船に乗って河内のいかるがのみねに降り立ち、その後大和に移ったと記されています。
そして、長髄彦と神武天皇が対峙したとき、天津神の子であるという証拠を見せ合い、どちらも天津神の子であることを認めます。
つまり、神武天皇が東遷する前に近畿地方に移って来て、そこを統治しているということを意味していました。
神武天皇もニギハヤヒも天孫であると日本書紀は、はっきりと言い切っています。
③ 先代旧事本紀では、アメノオシホミミがタクハタチヂメを娶り、二人の男子を産みます。
兄が、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)
弟が、天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみこと)
です。
ニギハヤヒは、天孫の印である、瑞宝・十種(みずたから・とくさ)を授けられ、次のように教えられます。
もし痛むところがあれば、この十種の宝を、一二三四五六七八九十(ひとふたみよいつむゆななやここのたりや)と言ってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせよ。このようにするならば、死んだ人は生き返るであろう
これが布留の言の起源です。
そして、ニギハヤヒは成長すると、長髄彦の妹である御炊屋姫(みかしきやひめ)と結婚して、ウマシマジ(宇摩志麻治命)が生まれました。
さらに、ニギハヤヒは、天道日女命(アメノミチヒメノミコト)を妃として、天香語山命(あめのかごやま)が生まれました。
ウマシマジは11月1日の庚寅(かのえとら)の日に、はじめて瑞宝を斎き祀り、天皇と皇后のために奉り、御魂を鎮め祭って御命の幸福たることを祈りました。これが鎮魂の祭祀の始まりです。
ニギハヤヒは、物部氏と尾張氏に連なる先祖ですが、先代旧事本紀には、これらの子孫の系図が記されているのが特徴です。
では、次に神社に残されているニギハヤヒの履歴についてみていきたいと思います。
ニギハヤヒを祀る古い神社は、大阪の河内に多くあります。
北河内と中河内は、ニギハヤヒを始祖とする物部氏の支配地でした。
反対に神武天皇を祀る神社ってあまり聞かないですよね?
すぐに思い浮かぶのは、奈良県橿原市の橿原神宮ですが、これは明治時代の創建になり古社ではありません。
明治時代の政治的な権威のために建立されたと考えられています。
さらに、中世には、神武天皇の御陵は不明になっています。
また、天照大神についても、天照大神を祀る伊勢神宮は三重県になり大和にはありません。
歴代天皇、特に日本書紀が完成する前に、ご参拝した神社は代表的なもので6社あると言われています。
1 石上神宮(奈良県天理市)
2 大神神社(奈良県桜井市)
3 大和神社(奈良県天理市)
4 熊野本宮大社(和歌山県田辺市)
5 上賀茂神社(京都市北区)
6 日吉大社(滋賀県大津市)
ですが、このいずれにも神武天皇も天照大神も祀られていません。
けれど、ニギハヤヒは古社に祀られているだけでなく、新撰姓氏録にも祖神として多数記載があります。
それではニギハヤヒに関係があると思われる古社を、順番に詳しく詳しく見て行きましょう!
宗像神社&茶臼山古墳
まずは、
奈良県桜井市の鳥見山(とみやま)の山麓に鎮座している「宗像神社」と「茶臼山古墳」を見て行きましょう。
宗像神社は
桜井市外山(とび)にある式内社で村社になります。
筑前国の宗像大社の「同神別社」とされており、延喜式神名帳に「三座」と記される「宗像三女神」の3柱を祀っています。
そして、この宗像神社に隣接するのが、前方後円墳の桜井茶臼山古墳です。
国内最多の103面以上の銅鏡破片が見つかっており、古墳の後円部の空壕の外に、宗像神社があるんです。
近年の発掘調査により、九州から東遷してきた初期大和王権の大王墓と言われており、箸墓古墳に後続する3世紀後半の築造とされています
そして、この古墳の被葬者である大王というのが、記紀には載っていないニギハヤヒ系の人物である可能性を示唆しているんです。
石上神宮
石上神宮は、
① 布都御魂=韴霊
② 布留御魂=十種神宝
③ 布都斯御魂=十握剣
という3つの剣を祀っている官幣大社になります。
奈良県天理市布留町にあり、崇神天皇の御代に創建されたと伝わる、日本最古級の神社になります。
もちろん剣を祀っているだけでなく、その剣の神様をお祀りしています。
古典には、「石上神宮」「石上振神宮」「石上坐布都御魂神社」と記されており、「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。
石上神宮の社伝では
・布都御魂は、スサノオの父親
・布都斯御魂は、スサノオ
・布留御魂は、ニギハヤヒ
・宇摩志麻治命(配祀神)は、ニギハヤヒの長男
とされていて、先代旧事本紀に記されたとおり、宮中で行われる「鎮魂祭」を伝承している神社で有名です。
「鎮魂祭」は、先述したとおり宇摩志麻治命が、十種神宝と鎮魂の神業とをもって、神武天皇と皇后のの長久長寿を祈った儀式であり、鎮魂祭を行う神社は石上神宮の他に「物部神社」があります。
この石上神宮近郊には、布留遺跡が広がっています。
布留遺跡は、古墳時代において、儀礼、政治、生産活動の中心地として機能しており、大和盆地の中でも重要な集落だったと考えられています。
布留遺跡の周辺には、東西2キロメートル、南北3キロメートルにわたって広がる複数の古墳群があります。
そして、これらの遺跡群は物部氏に関連しているという見解が有力視されています。
北側には石上・豊田古墳群と別所古墳群が広がり、北側の古墳群には、270基以上の古墳が集中しており、大型の前方後円墳や中小規模の円墳が6世紀を中心に多数築かれています。
古墳時代には、豪族の居館や、埴輪を用いた祭祀遺構が現れています。
布留遺跡の調査で出土した「布留式土器」と呼ばれるものは、その後、全国で確認されるようになり、大和政権の勢力拡大と共に、各地に運ばれて作られた土器であることが判明しているんですよ~。
布留川の南側では5世紀の後半に掘られた幅20メートルの人工の溝や鉄製品を作った鍛冶公房跡、多量の馬歯や馬骨、玉類、鉄製品を作る時に出る鉄滓などが発掘されています。
おそらく、この辺りが物部氏の本貫地であったと考えられるのです。
長くなるので、続きは次回に紹介したいと思います。
次回は大神神社、籠神社などを紹介していきます。
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