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私、タイのシャーマンであり、日本人とタイ人のクォーターである龍愛は、現代の日本人に日本の神様のことをしっかりと思いだしていただくために、様々な神様についてご紹介しております。
さて、前回は「ニギハヤヒの妻は瀬織津姫なの?」という面から瀬織津姫に関する諸説を紹介しました。
いくつかある説を総合的に見てみると
瀬織津姫の妻だとされている女神
・ 下照姫(高姫)
・ イチキシマヒメ(市杵島姫)
・ アマチカルミズヒメ(天知迦流美豆比売)
の三柱は、いずれも同一神の可能性が高いことが示唆されました。
そして、この三柱の女神の中で、はっきりとその存在が
オオクニヌシの娘で、アジスキタカヒコネの妹
だと記紀の系譜にも記されているのが「下照姫」になります。
また、「正統竹内文書」では、
「瀬織津姫」というのは
人々の罪や穢れを祓う祓戸大神の「役職名」
だとされています。
これをまとめると
下照姫は、ニギハヤヒの妻で皇后であり
別名として「イチキシマヒメ」や「アマチカルミズヒメ」の名前を持ち
「瀬織津姫」という役職についていた
ということになります。
ところが、ニギハヤヒと結婚して皇后となり、「御年神」を産んだ後の下照姫のその後というのは、記紀には記されていないんです。
また、正統竹内文書では、下照姫=瀬織津姫は、神武東征を助けたタカクラジ(高倉下)とかぐや姫を産んだことになっています。
瀬織津姫の子供達についても、とても興味がありますよね~
さらに、「瀬織津姫=ミズハノメ=神功皇后」という説もあります。
以前、源九郎とよさんは「神功皇后」の魂に守られているというお話をしたことがあります。
私は、
人のオーラ―を見て、その人がどの神様に守られているのか?
ということが、おおよそわかります。
もちろん、それを口にすることはほとんどないのですが、源九郎とよさんはとても不思議なオーラ―を発していたことから
彼女をお守りしている神様がどなたなのか?
とても気になり霊視させていただきました。
私の霊視の結果は、その特殊なオーラは「神功皇后」のものだとわかり、彼女が神功皇后の魂に守られていることがわかりました。
さらに源九郎とよさんは、
「源氏の姫」と呼ばれている源義経&静御前の末裔(源義経と静御前の間に生まれた子供は男女の双子であり、男の子は兄の源頼朝に殺されたが、女の子の方は静御前が実家の奈良に連れて帰り隠密裏に育てたらしく、彼女はその女の子の末裔に当たるそうです)である、霊能力を持った女性から
「神功皇后と同じオーラ―を放っている」
と言われたことがあるそうです。
その女性は、本業は芸能界の方なので、素性は一切表には出ませんが、相当な霊能力を持った人物で有名であり、豊富な歴史の知識を持ち、神社関係の書物の編纂等もされ、歴史本等も書かれています。
さらに、奈良県にある天理教という宗教団体の神主さんからは
「ミズハノメ」と「稲荷神」が守護霊だ
と霊視されたそうです。
その神主さんも、天理教の中ではすぐれた霊視能力を持つ人物で有名な方だそうです。
ということで、私は源九郎とよさんを通じて、以前から
瀬織津姫(巫女としての役職名)=ミズハノメ(守護神)=神功皇后(実在の人物)
だというイメージを抱いており、神功皇后もまた「瀬織津姫」という役職名を持っていたと考えていました。
神功皇后は、三韓征伐で有名な女傑ですが、架空の人物だという説も根強く残っています。
私は、もちろん実在の人物であると信じておりますが・・・・
神功皇后の三韓征伐により。朝鮮半島の一部は日本の支配下に置かれ、日本の政治的影響力を大きくすることができました。
三韓征伐の後、日本と朝鮮半島の間では、文化や技術の交流が進んだとされています。
仏教や漢字、農業等の技術が伝わって、日本に大きな影響を与えました。
私は、「初代瀬織津姫は下照姫」であり、その後
「罪や穢れを浄化するすぐれた能力を持つ水神系の巫女達」により、「瀬織津姫」の役職名が引き継がれていった
と考えています。
その役職名を引き継いだ巫女の中のひとりに、神功皇后がいたと思うのです。
さらに、瀬織津姫を祀る神社として有名な「廣田神社」には、次のような話が残されています。
神功皇后が三韓征伐のため朝鮮半島に遠征する際、巫女であった神功皇后に天照大神が神託を下しました。
「私の和魂が神功皇后の身を守り、荒魂が先鋒として船を導くでしょう」
しかし、神功皇后とそのお腹にいた赤子(のちの応神天皇)の命を奪おうと画策した「忍熊王」が、明石で待ち伏せしていたのです。
戦いを終えて帰路についた神功皇后は、忍熊王が待ち伏せしていることを知ります。
そこでルートを変えて、明石ではなく難波の港を目指したのですが、港がもう目の前というところで、船がグルグルと回り、進めなくなってしまったのです。
困った神功皇后は、一旦兵庫の港へ向かいます。
そこで神意をうかがうことにしました。
すると天照大神が次のようにご神託を下しました。
「荒魂(瀬織津姫)を皇居の近くに置くのではなく、広田国に置きなさい」
これを受けて「廣田神社」が創建されました。
廣田神社を祀ると、神功皇后の船は軽やかに進みだし、そしてこれにより忍熊王を退治することができたのです。
廣田神社の戦前の由緒書きには、瀬織津姫を主祭神とすることが記されていました。
なので、廣田神社は、前述の伝説のとおり、元々は天照大神の荒魂である瀬織津姫を主祭神として祀っていた神社だということになります。
その他、瀬織津姫は「橋姫」とも同一視される説があります。
(「ホツマツタエ」の中で、橋姫と同一視されいます)
「橋姫」は橋の守護神であり、悪縁を断ち切ってくれる神様でもあります。
あと、瀬織津姫のお墓と言われている場所があります。
それは、「六甲比命大善神社」です
「廣田神社」から車で30分くらいのところにあります。
六甲山は、元々「向かつ峰」と呼ばれていました。
これが六甲(むこ)と呼ばれるようになり、後に六甲(ろっこう)山になったそうです。
ホツマツタヱの中で、天照大神(ニギハヤヒ)に惚れられた瀬織津姫の新たな名前が
「天疎向津媛(あまさかるむかつひめ)」だと記されています。
廣田神社の荒魂の名前も「天疎向津媛(あまさかるむかつひめ)」です。
そんなことから、六甲山も、向津媛(瀬織津姫)が祀られているから。「向かつ峰」と呼ばれたのかもしれません。
瀬織津姫のお墓なは、とんでもなく大きな磐座になるのですが、「ウサギ岩」と呼ばれています。
ウサギの頭の形に似ているからだそうです。
ホツマツタヱでは、瀬織津姫は正妻として天照大神(ニギハヤヒ)を支え、オシホミミを産み、晩年は六甲の地で過ごしたと記されています。
ホツマツタヱには、記紀では隠された瀬織津姫の名前がたくさん登場します。
そこに、天照大神(ニギハヤヒ)と瀬織津姫が初めて出会った時のことが記されているので、
今回の最終記事として簡単に紹介しておきますね。
昔々、瀬織津姫が天照大神の宮殿に初めて訪れた時のことでした。
位の高い天照大神は、当然のことながら高い位置に座っており、
天照大神よりも位の低い瀬織津姫が階段を上がり、天照大神に挨拶する予定でした。
しかし、天照大神は瀬織津姫の美しさと優美さに心を奪われ、思わず自ら階段を降り、瀬織津姫の手を取り、宮殿へ迎え入れたのです。
この様子から、天照大神が下がり、瀬織津姫が天照大神に向かう
天(あま)が下がり、向かう姫
つまり、天疎向津媛(あまさかるむかつひめ)
と呼ばれるようになりました。
そして、瀬織津姫こと天疎向津媛と天照大神は結ばれ夫婦となったのです。
廣田神社には、現在「天照大神の荒魂」ですが、この正式名称が
撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
(つきさかきいつのみたま あまさかるむかつひめのみこと)
になります。
ホツマツタヱの記述を一致しますよね。
ということで、今回も長くなりましたが
廣田神社と六甲比命大善神社
に行きたくなりますよね~。
私は、マスターの称号が取れるまでは、日本には帰れないのですが、源九郎とよさんが、4月に帰国して廣田神社にお参りに行くそうです。
帰られたら色々と話を聞いて、面白い話があれば、ブログで掲載しますね~。
源九郎とよさんの日本神話の紹介は、かなり進んできましたので、ここで紹介しておきます。私のブログを読んでいただく上でも参考となるので、興味のある方はごらんくださいね。
★ 龍族の女王源九郎とよさんのブログサイト
とよさんがタイに来る前に、神様から与えられた貴重な体験として、
源九郎稲荷神社という荒廃した神社を復興された
ことについ活動記録のサイトを立ち上げられています。
このサイトに掲載されているブログには、とてもたくさんの不思議なお話が紹介されています。
私のブログを読んでくださる方には、是非同時に読んでいただきたいと思います。
そして、とよさんがしてきたような小さな小さな活動が、多くの人の心に愛と慈悲を取り戻すことに繋がるのだと思っています。
源九郎稲荷神社~復興への道~
https://genkurou-inarijinjya.ne