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謎多き神様「ニギハヤヒ」について、大神神社、籠神社と古社に伝わるニギハヤヒと関連のある社伝等を紹介しておりますが、今回紹介するのは「石上(いそのかみ)神宮」です。
石上神宮は、ニギハヤヒの剣である「布留御魂」を祀る旧官幣大社(かんぺいたいしゃ)です。
先に「官幣大社」というものについて、簡単にご説明しておきますね。
「官幣大社」とは、明治時代から戦前までの日本に存在した国家による神社の社格制度の中で、特に重要とされた神社の一つだと思ってください。
もう少し詳しくご紹介しますと
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明治政府は神社を国家が祭祀する「官社」と、地方が管理する「民社」に分けました。
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官社はさらに、皇室・国家との関わりの深さによって
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官幣社(かんぺいしゃ):国家が幣帛(へいはく=お供え物)を奉る
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国幣社(こくへいしゃ):国家が国を代表して幣帛を奉る
という区分がありました
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官幣社の中でも最も格式が高いのが「官幣大社」。
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例えば 伊勢神宮・石清水八幡宮・春日大社・出雲大社 などが該当しました。
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皇室や国家の歴史に特に深い縁をもつ神社が指定され、国家的に重視されました。
ということなのですが、この制度は第二次世界大戦後(1946年)にGHQの神道指令により廃止され、現在は存在していないのです。なので、私も官幣大社の前に「旧」という文字をつけております。
また、神社の由緒や格を語るうえで重要な用語になっているので、ちょっと覚えておいてくださいね。
石上神宮は、先に紹介した大神神社、籠神社と同様に、私が大好きな神社であり、日本に住んでいる時は頻繁に訪れていた神社です。
ちなみに、私のブログに度々出てくる「源九郎稲荷神社」の管理人兼語り部の中川氏は、「大神神社」の全国崇敬会の会長もされたおり、また、源九郎稲荷神社のお火焚祭を斎行してくださる大黒行者こと玄明院の岩岸住職は、石上神宮の崇敬会の顧問をされています。
ということで、源九郎稲荷神社は少なからず、ニギハヤヒには通ずる何かがある神社だと私は考えています。
話がそれましたが、石上神宮は、
奈良県天理市布留町
にある式内社で名神大社です。
※ 式内社は延喜式という法令集の中の神名帳(じんみょうちょう)に記載された神社のことです。
※ 名神大社とは、同じく延喜式の神名帳の中で、エリートととして格付けられている神社であり、特に神威(神の力)が強いとされた、祈祷対象のトップくらすの神社のことです。
大神神社や籠神社と同じく、周りを山々に囲まれた神聖な地にあります。
石上神宮を取り囲む山は「龍王山」「布留山」などで、布留川が流れる古墳密集地でもあります。
創設は、「崇神天皇」の時代になり、ニギハヤヒとの関連としては。物部氏の子孫である「物部氏」の総氏神であることです。
御祭神は、3つの剣にやどる神の
① 布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)
② 布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)
③ 布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)
になります。
これらの神様は、この三柱を総称して「石上大神(いそのかみのおおかみ)」とも呼ばれています。
この三柱のうち、石上神宮の創建に関わる神様が
① 布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)
になります。
この神様が宿る御神剣が 韴霊剣です。
この御神剣は、国譲り神話に登場します。
天照大御神の使者としてオオクニヌシの元を訪れたタケミカヅチが
葦原の中つ国を平定する時に使用した剣
になります。
また、神武東征の時にも、熊野の地で神武天皇の軍が悪神の仕業により戦意喪失させられるという窮地に陥っていたとき、この御神剣が天からもたらされ、無事に難を逃れることができたとされています。
剣を振るうまでもなく、ことごとく悪神が打ち払われたと記されているのです。
その後、無事初代天皇に即位した神武天皇は、ウマシマジノミコトに命じ、韴霊の霊威を称えて宮中で祀っていました。
しかし、その後、10代崇神天皇7年の時代に、イカガシコオノミコトが勅命により御神剣を石上布留高庭(禁足地)に遷し、そこに石上神宮が創建されたんです。
つまり、天皇の命令で、禁足地に埋斎されていたことになります。
そして、これらに関わった
ウマシマジノミコト
イカガシコオノミコト
は、そもに物部氏の遠祖になります。
そして、石上神宮は、物部氏の総氏神になるのです。
物部氏は、古代において武門の統領と言われた一族であることは、みなさん良くご存知だとは思いますが、5世紀頃には、物部氏の勢力は朝廷内でも強大なものになっていました。
この神剣「韴霊剣(フツミタマ)」が発見された経緯について、ご紹介しておきますね。
元来神剣というのは、神から授かった、または、神に供えた刀のことをいいます。
そのうち神の代から伝わると言われている「神代三剣」は、記紀神話にも登場する剣です。
神代三剣は、言葉通り三振りの御神剣を指し、
三種の神器である「草薙剣」がその1つです。
そして、残りの二振りが、石上神宮の禁足地で見つかっているのです。
元々本殿を持たなかった石上神宮には、拝殿の後ろに小円丘状に盛り土された約800平方キロメートルの土地がありました。
そこが古代より禁足地とされていた場所になり、「石上大明神縁起」には、そこに、ご神体が埋斎されていると記されていたのです。
「石上大明神縁起」は、江戸時代の元禄12年に編纂されたものですが、その中の社伝の項には、こう書かれています。
「禁足地には石籬(せきり)があり、神剣が石櫃(せきひつ)に安置されている」
石籬とは、石で囲まれた遺跡のことを指すことが多く、
石櫃は、石製の容器のことで、石棺などもその1つになります。
明治7年に、当時の大宮司である菅政友(かんまさとも)が、この禁足地を調査したところ、まず最初に
神剣「韴霊剣(フツミタマ)」
が見つかりました。
続いて
明治11年には天羽々斬剣
が見つかりました。
その後、禁足地に本殿が立てられ、この二振りの神剣は無事に奉斎されました。
石上神宮は、崇神天皇の時代に創建されたと言われていますが、本殿は明治時代になって初めて建設されたことになるのです。
大正2年に完成したとのことなので、まだ最近のことといえます。
この発見により、石上神宮の伝承の正しさが証明されたのです。
はて? これはどういうこと? かと言いますと
石上神宮は、天武天皇の御代に神宮を名乗ることを許されましたが、天武天皇の御代が終わると、神宮を名乗れなくなるという経緯がありました。
そして、この神剣が発見された明治16年から、再び、石上神宮は神宮と名乗ることが認められたわけなのです。
さらに、石上神宮にはすごい物が祀られています!!
このようにして発見された韴霊剣が宮中で祀られていた時、もう1つのご神宝が一緒に祀られていたのです。
そのご神宝は、「天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)」といって、
神武天皇と皇后が幾久しく生きながらえるよう、ウマシマジノミコトが祈りを込めて献上されたご神宝になります。
「天璽十種瑞宝」は、ウマシマジノミコトの父であるニギハヤヒが、天界で天照大御神より授かり、地上にもたらされた神宝です。
つまり、ウマシマジノミコトからすれば、一族の宝になります。
そして、この「天璽十種瑞宝」に宿る神様が、崇神天皇7年から祀られている
②の 「布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)」
になります。
天璽十種瑞宝の霊威は驚異的であり、死者をも蘇らせるほどだと言われています。
天璽十種瑞宝こと「十種神宝」には、
2種類の鏡
1種類の剣
4種類の玉
3種類の領巾(ひれ)
が含まれています。
この中の玉に
死反玉(まかるかえしのたま)
という「死者を蘇らせる玉」があります。
また、十種の神宝の中に含まれている剣は
八握剣(やつかのつるぎ)
といって「心の内に湧く邪気を追い払う剣」になります。
現代の三種の神器は、この十種神宝が持つ力、性格、在り様を受け継いでいるという見方が存在しています。
つまり、これらの刀を朝廷に献上したウマシマジノミコトは、神宝の力で天皇と皇后の長寿を祈っていることから、この頃の新旧の体制は、互いに歩み寄って融合したとも考えられているんです。
実際に、現在も行われている「鎮魂祭」の元になっているのは、ウマシマジノミコトが行った「鎮魂祭(みたまふりのみまつり)」です。
続いて、石上神宮の三柱目の主祭神
③ 布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)
ですが、この神様も記紀神話に登場しています。
布都斯魂大神は、スサノオノミコトが、八岐大蛇を退治するときに使った
天十握剣(あめのとつかのつるぎ)
に宿っていた神様になります。
ここで勘の良い方は気が付いたと思いますが、
この神社にはなぜ凄い神剣ばかりがなぜ集まっているの?
ということですが、これは石上神宮が、大和政権の武器庫だったからだと言われているんです。
垂仁天皇天皇記によると、天神庫(あめのほくら)という神宝を保管する場所が当時存在したと記されています。
この天神庫は、石上神宮にあり、次第に武器庫として使われるようになったそうです。
また、日本書紀では、垂仁天皇39年に、天皇の皇子である五十瓊敷命(いしきのみこと)が、「一千口もの刀剣を製造し、石上神宮に納めた」と記されており、この頃から武器庫としての役割が始まったと考えられているのです。
さらにその後、妹姫の大中姫命が、そこを管理していましたが、途中で物部氏に権利を委譲しました。
武門の統領である物部氏が管理することで、多くの族が、ここへ一族の宝物を祀るようになりました。
けれど、天武天皇の代に諸家の宝物は返還するように命が下され、石上神宮にも、神宮としての役割が求められました。
物部氏がこの命に背いたという記述は見当たりませんが、歴史の流れの中で次第に物部氏の勢力は弱まっていったようです。
さてさて、
大神神社も石上神宮も、どちらも日本最古の神社といわれていますが、
大神神社は神社なのに、石上神宮は、神社ではなくて神宮なのでしょうか?
そもそも神宮と言う抗賭場が生まれたのは、
神様を祀るための建物である「宮」
が造られるようになってからのことなんです。
山を依り代とするなどの自然崇拝が基本だった古代には、自然物と簡素な社があれば信仰は成り立っていました。
そして、天皇による中央集権的な国家が形成され始めた頃から、神宮が造られたとも言われています。
神宮というのは、神社の中のエリート的な存在であり、希少な存在だとも言えます。
現在、約8万8000社もあると言われる全ての神社の中でも、神宮と称する神社はたった24社です。
日本書紀によると、神宮と呼ばれた神社は
石上神宮のほか、伊勢神宮だけ
であり、この2社、日本最古の神宮を記されています。
以上が、石上神宮の主祭神である3つの剣に宿る神様の説明になります。
しかし!!
石上神宮には、な、な、なんと!
まだ、凄い剣が祀られているんです
石上神宮の摂社には、なんと!
三種の神器の1つである「草薙の剣の荒魂」
が祀られているんです
神道には分霊という考え方があり、つまりは「和魂(にぎみたま)」と「荒魂(あらみたま)」という分けた魂のことを指します。
和魂は穏やかな魂で、荒魂は雄々しく荒ぶる強い魂のことです。
この摂社ですが、摂社なのに凄く格の高い神社になります。
石上神宮の大鳥居を抜け、楼門の前へ行くと4つの摂社があります。
そのうちの1つが
「出雲建雄神(いずもたけるのかみ)」を祀る出雲建雄神社
です。
天武天皇の時代、石上神宮の神主であった「布留邑智」は、ある夜に夢を見ました。
「布留川の上に八重雲がわいている。その中に何やら光輝くものが見えるが、あれは? なんと御神剣ではないか!」
翌朝、布留邑智が夢に現れた場所へ行くと、そこには8つの霊石があり、神がおられました。
「私は尾張氏の女が祀る神である。今この地に天降(あまぐだ)って皇孫を保(やすん)じ諸民を守ろう」
と告げられました。
それで、布留邑智は、その神様をお祀りすることになりました。
これが、石上神宮の摂社である出雲建雄神社が祀られた経緯になります。
草薙剣は、熱田神宮に祀られていますが、熱田神宮は、現在の愛知県名古屋市にあり、古くは尾張の国の神社ということになります。
とすると、布留邑智が夢で見た神様が「尾張の女が祀る神」と言っていた、尾張の女とは、ヤマトタケルの最後の妻「ミヤズヒメ」だと考えられます。
ミヤズヒメは、熱田神宮の創建に関わりの深い女性になります。
では、この尾張の女というのがミヤズヒメだと仮定すると、
なぜミヤズヒメが、草薙の剣の荒魂を石上神宮に祀るように言ってきたのでしょうか?
そこには、ある事件が関連していると言われています。
天武天皇の時代、熱田神宮では、盗難騒ぎがありました。
「日本書紀」によると、新羅の僧が神剣を盗み持ち帰ろうとしたところ、船が難破して元に戻ったと記されているんです。
そして、熱田神宮に戻されるまでの一時期、宮中に預けていたと言われるのですが、これには異論が存在していて、一説には
「草薙の剣は、はじめ石上神宮で祀られていたのではないか」
と考えられているのです。
その理由として
1 石上神宮に「出雲建雄神」が祀られ始めた時代が、天武天皇の世であること
2 当時の熱田神宮には、神器を管理できるほどの力はなかった
と考えられることから、そのように推測されているのです。
ちなみに由緒では、
出雲建雄神は、主祭神の布都斯魂大神の御子神
と位置づけられいるため、出雲建雄神社は「若宮」とも呼ばれています。
かなり長い文章になってきましたので、今回はここで一旦終了して、
次回は、さらに謎深い「石上神宮の奥宮 八つ岩」についてご紹介します。
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