(参考:N01303「アルゼンチン警察の弾圧で17人が負傷」)


数百人が1月18日、アルベルト・ニスマン検事死去から1周年のこの日、かれの死の真相解明を要求して抗議行動をおこなった。公の鑑定人はすでに自殺であると発表している。同じとき、社会運動、政治組織、人権運動の諸団体は、5月広場に集まり、南米共同市場議会(Parlasur)議員であり、トゥパク・アマル運動の指導者であるミラグロ・サラの釈放を要求した。


アルゼンチン右派のマウリシオ・マクリ大統領の政府役人たちが、この国のユダヤ人社会のメンバー、日刊紙、ラ・ナシオンクラリンの記者たち、検事の遺族とともに、ニスマンを偲ぶ集まりに出席した。かれは1994年7月に発生したアルゼンチン・イスラエル相互協会(AMIA)襲撃事件の捜査を担当していた。


集りのなかで、「ニスマンへの追悼」と、ラ・ナシオンのホアキン・モラレス・ソラ記者は、「殺人」と、司法にたいしてこの立場からの解明をもとめた。


ジャーナリストのビクトル・ウゴ・モラレスは最近ラジオ局コンチネンタルを政治的理由から解雇されたが、かつて検閲されたプログラムに招待され、1月17日の夜、C5Nで同僚のロベルト・ナバロに向かって、死亡の捜査を修正しようとする試みについて告発をおこなった。つねにこれは当時のクリスティナ・フェルナンデス・デ・キルチネル大統領に打撃を与えるために使用されてきた。


ガブリエラ・ミチェッティ副大統領はニスマンへの賛辞のなかで、かれの政府は「誰もがいかなることをも隠すことができないために」、「すべての事柄が、これが真実となるように」、正義をおこなうと述べた。


一方で情報処理の専門家、ディエゴ・ラゴマルシノは、ニスマンとともに働いており、ニスマンはかれに死の前日にピストルをもとめたのだが、「すべてはニスマンが死んだとき、かれが一人であったことを示している」と語った。真実は、何が起こったのか知らない。もしもかれが自殺したのなら、どうしてそれを望んだのか、何がかれを強いたのかを知らなければならない」。また何人かのジャーナリストが言うように、ニスマンとカップルであったことを否定した。


ニスマンは自宅の風呂場で、こめかみの銃弾によって死亡した。かれはフェルナンデス大統領とエクトル・ティメルマン外相を、何の証拠もなく告発状を提出していた。それは2013年、イランとの覚書の調印で、AMIA襲撃で告発されているイラン人をテヘランで尋問し、真実を知ろうとする意図のものであった。


一方フフイでは、トゥパク・アマル団体は、その指導者ミラグロ・サラの釈放を要求した。そして「35日前、かれらはわれわれを挑発しようとし、反応することを望んだが、それは成功しなかった。そしてわれわれを(州の)広場から立ち退かすことは出来なかった。なぜならアルゼンチンでは社会抗議は犯罪ではないのである」。トゥパク・アマルは16年間にわたる闘いを続けており、この地方では、公務員、大レデスマ製造所についで、3番目の労働場所を提供している。


首都においては数百人が5月広場に集まり、サラの釈放を要求した。彼女は1月16日に、北部のフフイ州の右派、ヘラルド・モラレス知事の決定によって逮捕された。サラは1月17日からハンガーストライキを始めた。


5月広場の祖母たちの代表、エステラ・デ・カルロットは、この集会のなかで主張した。1か月少しのマクリの政府は「わたしたちに敬意を払わず、毎日のようにわたしたちに何かをする。1か月前からわたしたちは地獄のなかを生きている」。そして「立ち上がること」を呼びかけた:「わたしたちは恐れてはいない。かれらが恐れている。わたしたちを屈服させることが出来ないことを知らなければならない」。


欧州のメディアは、そのなかでザ・ガーディアンは、トゥパク・アマルの仕事について書いており、そこでは数千の住宅を建設し、協同組合による労働を実現し、これをモラレス知事は破壊しようとしており、これが意味するのは、数千人が仕事を失いことを意味する。


勝利のための戦線(FpV)のエドゥガルド・デペットゥリ下院議員は、ブエノスアイレスで、サラの逮捕は「社会抗議を悪に仕立て上げようとするもので」、これにより「39,000人の雇用が失われようとしている」と指摘した。

(N01306) [La Jornada のStella Calloni による]