[La Jornada のBernardo Barranco による]


オスカル・アルヌルフォ・ロメロ(1917-1980)の列福式に集まった人々の数を、わたしは数えることができなかったのだが、通信社によれば20万人を超えていたということだ。現地時間で午前10時、サンサルバドル西部のエルサルバドルデルムンド広場において、「声なき者の声」の司教は福者の聖職位へと引き上げられた。一般の人々や宗教者が57か国から、その立会人として集まった。1,400人の聖職者、政治家、サルバドル人、その他の国からの人々が、


式典にはサルバドル・サンチェス・セレン大統領、かれの妻、政府の閣僚、市長たちが出席した。


このほか式典には外国の指導者たち、大統領としては、エクアドルのラファエル・コレア;パナマのフアン・カルロス・バレラ;ホンジュラスのフアン・オルランド・エルナンデス;キューバのミゲル・ディアス・カネル第1副議長;ベネズエラのホルヘ・アレアサ副大統領;コスタリカのエリオ・ファジャス副大統領;グアテマラのアレハンドロ・マルドナド副大統領;ベリーズのガスパー・ベガ副首相らが出席した。


わたしはテレスールのコメンターとして出席した。報道陣は広場の近くの屋根に覆われた場所にしつらえられ、ここからは特権的に式典の全貌を窺うことができた。非常に早くから、参加者たちは秩序だって到着した。ほかの人々は宿泊し、つまり降りしきる雨のなかを、聖なる前夜を過ごしたことになる。


式典が始まるときはお祭りの雰囲気であった。サルバドル人による宗教歌は、この聖なる式典を待ち望んでいた大衆に火をつけたようだった。それは宗教的なイコンであるだけではなく、国民的な英雄でもある。軍のヘリコプターが2機、上空を無責任に飛び、それは不興を買った。われわれが放送している場所からわずか数メートルのところを通過し、テントのシートをあやうく潰しそうで、上半身をむき出しにし暗いサングラスをかけた兵士が見え、それはアクション映画のようであった。


対策は必要であった。つまりロメロ師の葬儀、やはり20万人以上が参加したときのことが思い起こされる。そのとき発砲と負傷者が生まれ、それは悲劇を引き起こし、そのなかで40人が死亡した。子どもたちや女性たちは、主要に圧迫され窒息して死亡した。それはこの中米の苦難の歴史のなかの一つのエピソードである。『マグ』のマンガを思い出す。かれはそのときの、葬儀への法王の代表、われらが[メキシコの]エルネスト・コリピオ・アウマダ大司教を描いた。マンガではメキシコの高位聖職者が走りながら話している、「ここでは留まるよりも、走ることに価値がある」。このほかでわれわれが指摘しなければならないことは、外国からの出席者の紹介がアナウンスされたときのことだ。アナウンスされるや、すべてに拍手が送られたが、メキシコ代表が紹介されたとき、野次が引き起こされ、それはこの国のサッカー代表の試合がおこなわれたときの方が、静かであっただろう。


2時間以上続けられた式典のもっとも素晴らしいときは、最後であった。


フランシスコ法王の手紙が読み上げられたとき、人々の心に火がつけられた。法王ベルゴグリオ[フランシスコ]が直接的で非常にシンプルな言葉で語ったとき、感動的な拍手が起こった:「ともに生きることが困難であったとき、ロメロ師は、かれは信じるものを指し示し、守ることを知っていた。つねに福音とすべての教会への忠実さとともに。その仕事は、もっとも貧しいもの、虐げられたものたちへの注意が、とりわけ際立っていた。そしてかれの死のとき、愛への聖なる犠牲と和解をおこなっていたとき、「その羊たちに生命を捧げたことによって」、まったくの恩寵を受けることになった」。


このほかの式典のなかで感動的だった場面は、ロメロの遺品が捧げられたときであった。かれが殺害されたときに着ていた血にまみれたシャツである。花と棕櫚の葉は、フランシスコ法王の特別使節であるアンヘロ・アマト枢機卿により「殉教者の勝利」を意味していた。サンサルバドル大司教のホセ・ルイス・エスコバル・アラス師のみならず、アマトなどの出席は、甘美なものであり、ロメロを愛に満ち汚れ一つなく、混乱した現実と暴力に立ち向かった聖職者と描き出すものだった。そこには人々の熱情との断絶を感じた。正義、貧者、そしてかれらに生命を与えたという鍵となる事柄が語られ賞賛されることが少なかった。


エルサルバドルのエリートたちがそこにはいた。特権的な場所に、もちろん日焼けからは舞台横の日よけによって守られて。カトリックのエリートたちは、過去においてはロメロを攻撃し、かれを貶めようとしていた。それはかれが貧乏人にたいして尽くしていたからである。当時のカトリック教会の上位にいるものの多数は、ロメロを孤立化させ、今日福者となったもののような勇気を持つこともなく、そのような考えも持っていなかった。


ローマにはかれにたいする告発、嘘の報告、中傷が満ちており、ロメロにたいする偏見から、かれはたった一人で軍事独裁にたいする告発を説教し続けた。そのエリートは今日、エレガントに拍手し、バチカンの保守派の助けで、ロメロを福者と列聖のプロセスを進めることで自身の贖罪にし過去を冷凍している。


これら同じ高位聖職者と古い政治家たちは、ローマにたいして、ロメロの心理学的、イデオロギー的能力にたいする大きな疑いを植え付けた。ついにはあの忌まわしい時代について検証するための、教会の定めによる訪問を2回おこなうことを強いた。最初の検証はアントニオ・クアラシノ枢機卿であった;そののち送られたのは、エドゥアルド・ピロニオ枢機卿であった。両者ともに、当時の反逆する聖職者の行動は、共産主義に連なるものと確信しそれを支持することになった。


ただフランシスコが法王になることによって、法王はロメロの勇気を賞賛し、2013年になって、かれの福者への道が開かれることになった。2014年の言葉を思い起こすことができる:「わたしにとり、ロメロは神の人である」。


ベルゴグリオは自身が軍事独裁を背景にした時代のなかでの信仰の体験を生き、その野蛮な弾圧は決してアルゼンチンだけではなく、1970年代のアメリカ大陸であった。したがって現在の法王は、ロメロ師がその人生のなかで受けた苦しみ、無力、痛みにたいして敏感なのである。


もっとも感動していたのは、ビンセンソ・パグリア師であり、かれがロメロの列福過程を申請したものであった。穏やかではあるが辛抱強く、この件が不可能であると思われたとき、何度もそれに抵抗した。もっとも困難だったときは、いま福者と敬われているものにたいして、かれを非難する山ほどの手紙が届いたときであった。かれの式典での演説は熱情的で熱く、しかしながらいまやロメロは、流れのなかに位置付けられているにもかかわらずであった。


ロメロの列福はただ福者に、エルサルバドルに留まるものではない。それはラテンアメリカのすべての世代の聖職者への再認識である。かれらは弱きもの、迫害されるものへの連帯から、福音を説教することによって、その生命を危険にさらした。それは貧しく阻害されたものへの義務を果たすものにとって、大きな正義の行動であった。またいわゆる解放の神学の活動家にとって、かれらはフアン・パブロ2世とベネディクト16世の時代、追放され抑圧されてきた。


列福はすでに死亡した多くの聖職者にも広げられる。しかしそのほかの教会の冬の時代に引き離された世代にも、その道は開けられる。(N01153)