(参考:N006「グアテマラ大統領、内戦犠牲者に謝罪」)


1931年以来独裁体制を布いてきた、グアテマラのホルヘ・ウビコ大統領は、1944年、広範な反独裁闘争のなかで辞任を余儀なくされ、その延命の策動にたいして、1944年10月20日若手将校がクーデターに決起する。「人民の兵士」による「グアテマラ10月革命」である。このときの指導者がハコボ・アルベンス・グスマンであった。12月の大統領選挙では、アルゼンチンで大学教授をしていたフアン・ホセ・アレバロが大統領に選出され、ハコボ・アルベンスは国防相となる。グアテマラ革命(1944-1954)の始まりである。


1951年大統領に就任したハコボ・アルベンスは、農地改革法を実施、大土地所有制から農民に土地を分配した。その対象は未開墾地であったが、米国のユナイティッド・フルーツ社の所有地が没収されることになった。米国はアルベンス政権を共産主義者によるものと決めつけ、1954年第10回米州機構(OEA)会議(カラカス)で、グアテマラ制裁決議を採択、アイゼンハワー大統領は、カルロス・カスティージョ・アルマスを使ってホンジュラスからグアテマラに進攻させ、アルベンス大統領を武力で打倒した。


ハコボ・アルベンスはグアテマラを追放されることになる。グアテマラシティーのアウロラ空港において、かれは身体検査と称して衣服を脱がされての検査を受ける。それは前国家元首にたいしては考えられない辱めであった。すべての財産は押収された。アルベンスは1971年メキシコで死亡する。


それから57年後の10月革命の日、2011年10月20日、グアテマラ大統領のアルバロ・コロンは、グアテマラ国家の名において、アルベンスの家族に謝罪した。ハコブ・アルベンス・ビラノバはアルベンス・グスマンの唯一の生存する子供である。3人の孫と3人のひ孫が式典に参加した。


「それは何よりも彼にたいする犯罪であった。また彼の妻と家族にたいしての。しかしそれはグアテマラにたいする犯罪でもあった。この日をさかいにグアテマラは変わり、それはいまもって回復していないのだ」、コロンは家族の前で語った。


アルマスは大統領となり、農地改革法は撤回され、改革派将校は反乱軍となり、やがて1960年から36年間継続する凄惨なグアテマラ内戦へとつながっていく。(N0119)