初めてこのトピックで投稿してから大分時間が経過している。Yahoo時代に思い付くまま書いたものだがその昔は三船敏郎、丹波哲郎、近年は渡辺謙、真田広之、それにもっと若手の女優さん以下、まるでメジャーリーグに挑戦する野球選手並みに増えている。

 

そんな俳優さんの中で大先輩にあたる男優さんが一人いた。まさに先駆者としてアメリカに渡りサイレントからトーキー時代を駆け抜けた人が早川雪洲である。生まれは生っ粋の千葉っ子で1886年の6月生まれである。

 

 

 

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以下、以前書いたものに加筆してみた、、;

 

冗談みたいだがこの写真の好男子、本名は早川金太郎と言う。何故この時期、この人に遭遇したのか、、ガキの無いものねだりじゃないがこの歳になると欲しいものをすぐにでも手元に取り寄せたい。ワタシの場合はそれが“本”であるケースが多いのだが数ヶ月前に何気なく手にした佐々木譲氏の単行本にすっかりハマってしまった。

執筆時期は前後するが“警官の血”を読んだあとにTV放映化されると言うので娘にDVDで収録させてわざわざ送らせたほどだ。しかしそれ以前の戦争3部作と言われた“ベルリン飛行指令”、“エトロプ発緊急電”、を連続読破し最後になった“ストックホルムの密使”、これをどうしても読みたくなりアマゾンやらブックオフで検索し、家内に今度これを買うつもりだが他に欲しいものはある、、?と聞いた所、間髪を置かず“ナニ、これ読みたいの、、?”と出されたのには唖然とした。何の事はない、我が家の書棚に埋もれていたと言う訳で普段翻訳ものミステリーしか読まないワタシには全く興味がないものだと家内が勝手に決め付けていたと言う訳だった、、。

どうしてこの金太郎転じて芸名、早川雪洲かと言うと、その小説の中で戦争中のパリを舞台に彼が実名で登場するのである。無論挿話は多分にフィクションではあるが思えば千葉の裕福な網元に生まれ、その波乱万丈な生涯をハリウッド、ニューヨークそしてパリを始めヨーロッパ各地で過ごした彼の俳優人生がそれ程一般には知られている訳ではないと思い至った。勿論今の若い世代では名前さえ知らないだろうがまさに一世を風靡した本場銀幕の大スターとしてその存在は我々世代にも大きな時差があり当時の人気ぶりは想像するのもおぼつかない。

彼の伝記には大いに興味があるがウィキによると単身渡米し1913年にシカゴ大学を卒業、ロスのリトルトウキョウに活動の場を移し色々とご苦労をされた由、そんな時代に英語も満足に喋れなかったであろう青年がハリウッドのスターの座を射止め、脚光を浴び、銀幕に君臨していた、それだけでも心が弾むではないか。それこそ伝記映画化に値する日本人俳優像ではないだろうか、、どうです何処かのプロデューサーか脚本家諸氏、彼の人生を映画化出来ませんかあ?

今でもハリウッドの撮影現場では業界用語に”セッシュウ”と言うのがあるそうな、、何でもこれは背の低い俳優さん用に使用する踏み台の事で相手俳優さんと釣合いが取れるように何時も何処かに常備されているような、、トム君に聞けば知っているかも知れないな、。

“戦場にかける橋”でのサイトウ大佐役が一番印象深いものであるが当時既に70歳を越す頃であった訳でもっと若い頃の洋画や邦画を改めて見たいと切実に思い始めた、、しかしそれこそガキの無いものねだりであってそうは簡単に行かない、、こんなインターネット一つで簡単にダウンロードが出来る時代なのに何故もっと手軽に彼の主演作が見れないのだろう、、果たしてそんな日が来るんだろうか?

 

このYahoo時代に毎回コメントを投稿してくださっていた九州在住の方から彼の初期の映画でハリウッドでは評価の高かった”チート”(1915年)と言う作品をビデオに録画して送って貰った事があった。まだサイレントの時代で画面の下部に出る英文を(日本語併記)を読むのだが若き金太郎が徹底した悪役を演じていた。アレはハリウッドのプロデューサーの目に留まっても不思議ではなかった。しかし余りの極悪人振りにロスアンジェルス近郊に在住する日系人社会では辛辣な意見が多かったらしい。

 

その後の彼は愛妻の青木鶴子を伴ってパリに移住、映画作りに没頭するが同時にニューヨークでの演劇活動を続け1922年から戦争が始まるまでは舞台劇を中心に活躍を続けたようだ。

 

戦後は又、アメリカに戻り1945~67年はハリウッドに復帰、数多くの作品に出演、その絶頂期に1957年にはサイトウ大佐役で「戦場にかける橋」に大抜擢されている。これはたまたま映画界に居合わせて抜擢されたのではなく監督のデビット・リーンもプロダクションサイドからも是非にと乞われて出演したもので既に70歳を過ぎていた。

 

その後、1950年代初めには日本へ帰ると当時の大映の社長だった永田雅一の配下、原爆投下を主題にした映画、”ヒロシマ”の制作を進めるのだが双方の意見が折り合わず結果この映画は日の目を見る事はなかった、、もし完成していれば現在上映されている”オッペンハイマー”はこれにインスピレーションを受けたと監督に言わしめたかも知れない、、。

 

1965年にはNHKの大河ドラマ、”太閤記”に武田信玄役で出演、それから三年後にテレビ出演したのが最後になってしまった。1973年に87歳で世を去っているが何とも波瀾万丈の激しい生き様、そしてロマンに溢れた人生だったのではないだろうか?