右から左に読む玄関の看板は「水」の文字が消えかかっていた。
建物の正面。
樹木にも覆われ、良い雰囲気である。
中に入って声をかけると、奥から愛想の良い男性が出てきた。
調理人といった装いだった。
割烹旅館だから当然かもしれない。
宿帳に記入の後、部屋に案内される。
趣ある廊下を歩く。
1階の「牡丹の間」だった。
6畳1間の和室。
布団はすでに敷かれていた。
男性用の浴室は壊れているとのことで、女性用の浴室に行く。
「女湯」に入るのは、なんとなく罪っぽい。
温水プールのような塩素臭もするが、ジャグジーのような風呂は快適だった。
昔、この地には温泉が湧いていたと事前学習で学んでいた。
その名を「大利根温泉」といったらしい。
昭和30年代、ガス採掘中に温泉が湧き、リゾート施設も造られたようだ。
しかし、昭和50年代に入って枯渇してしまったという。
いわば、幻の温泉地というわけだ。
夕食は18時半頃、部屋に運ばれてきた。
宿泊料金から期待していなかったのだが、良い意味で裏切られた。
牡蠣のグラタンや天ぷらは出来たて熱々で美味かった。
白子ポン酢などの酒の肴も何品かあって嬉しい。
瓶ビールの後には、おすすめという九十九里あたりの純米酒をいただく。
キリリとした辛口で、料理にとても合う。
箸袋には「大利根温泉」と印刷されていた。
かつての温泉宿の名残りというわけか。
その夜は旅先としては珍しくよく眠れた。
翌朝。
朝風呂に入る。
もちろん「女湯」である。
言われていた8時半頃、朝食が運ばれてきた。
海苔、納豆、卵焼き、鮭の塩焼き、ほうれん草のおひたし、しらすおろしなど、定番かつ充実した料理だった。
味噌汁の豆腐が細長く切られていたのが、理由はわからないがおもしろく思われた。
くつろいだ。
部屋にトイレも洗面も付いていないので不便といえば不便ではあるが、部屋を抜けて館内を歩くのも楽しかった。
かつての旅館というのは、これが当然だったのだ。
9時半を回って部屋を出た。
帳場で声をかけると、年配の男性が現れた。
昨日の男性が若旦那で、こちらがご主人だろうか、と勝手に想像してみた。
ビールと酒の代金を支払う。
ロビーの写真を撮らせてもらった。
ご主人は青森県弘前市の出身だそうで、青森県の民芸品などが飾られていた。
ロビーの先には日本庭園が広がっており、その先ではゴルフをしている人の姿が見えた。
利根川の河川敷だが、メンバーコースなのだとおしえられた。
「大利根温泉」の話も少しだけ聞けた。
当時の源泉は宿のすぐ脇にあったらしい。
今も見られるかと訊いてみたが、埋めてしまったから何もないとのことだった。
温泉宿の痕跡は、箸袋に残るのみか。
玄関脇の立派な池では鯉が泳いでいた。
昭和の時代や幻の温泉にも思いを巡らせることが出来る貴重な一夜だった。
距離以上に、随分と遠い世界を旅しているかのようでもある。
大通りに出れば、「大利根温泉」バス停がある。
柏たなか駅行きのバスが、1日2本の運行とは驚く。
ここはやはり、幻の温泉地のようである。














