人々の生まれつきの利発なことや愚鈍なことを見抜き、常に清らかな教えを説き、衆生救済を重んじる大乗の教えを護り続け、自ら仏の国土を清浄にし、未来に於いても測り知れないほど無数の仏を供養し、正しい教えを述べ伝え、また自ら仏の国土を清浄にし、常に諸々の人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段を用いて、教えを説くのに恐れることなく、測り知れない人々を悟りの境地に導き、一切のものについて完全に知る智慧を成就させる。
諸々の如来を供養し、仏の教えを尊んで守護して、その後に仏に成ることを得るであろう。その国の諸々の生命のあるものすべては、色情の欲は既に皆既に無くなって、母胎や卵などからではなく、忽然として純粋に生まれる仏の相を身につけ、智慧・福徳・相好で身を飾る。
仏の教えを聞き、それを信じることによって、心に湧く喜びと禅定に入った喜びを食物とし、さらに他の食べ物を心の中に思い浮かべることはない。諸々の女人はいない。また、諸々の現世で悪事をした結果、死後に趣く苦悩の世界もない。現世や来世に幸福をもたらすもとになる善業と善根、一切の真理をあまねく知った最上の智慧を得るという成仏、生死の迷いを去って、一切の真理を正しく平等に悟る。常に大きく明るい光を放ち、諸々の神通力を身につけ、世間での評判や名声は十分に広まり、すべての人々から尊敬される者として常にこの上ない道を説く。この国土は清浄であり、悟りを求める修行者たちは皆勇気があって、何ものをも恐れない。仏はそれぞれの弟子たちに未来世の成仏の証言を与える。この会にいない者たちには、おまえがその者たちのために述べて解き明かすにちがいない。常に思いのままにし、足りないと思うことがないようにする。仏もまさにこれと同じである。物事の最後に行き着くところの最高の悟りの境地がある。仏の安穏な声は今までに一度もなかったことであると歓喜し、永久に無限の恵みをもたらす智慧の仏を礼拝し奉る。苦しみの根源である我執や煩悩を滅して真実の悟りの世界に渡る。
仏のこの上ない物事をよく見極め、道理を正しく把握する智慧を得て、そしてこれこそが真の煩悩や苦悩の消滅であると言う。智慧、福徳、相好などで浄土や仏の身を飾る。
仏の真理を知ってはいてもまだ迷いを完全に断ち切っておらず、学ぶ余地がある者がいる。煩悩を断ち尽くして、もはや学ぶべきもののない境地の自己の悟りのみを求める修行者もいる。仏は常に努力し、雑念を去り、仏道修行に専心した故に、既に一切の真理をあまねく知った最上の智慧を完成させることができた。道場に坐って物事をよく見極め、道理を正しく把握する精神作用の証明を得る。いろいろな神通力を用い、十方の生命あるものすべてを悟りの境地に導く。名声があまねく至るところに広まり、徐々に煩悩の火を消して智慧の完成した悟りの境地に入る。声聞に対しても十方の生命のあるものすべてとして悟りの境地に導くとしている。
法華経は第一である。最も信じ難く、理解し難い。この経は諸仏がみだりに人に授与してはならない、諸仏世尊の守護し給うところである。昔から今まで未だかつてはっきりと説いたことはなかった。しかもこの経は如来が現に存在していてもなお怨みや嫉妬が多い。言うまでもなく、如来がこの世を去った後に、この経をよく書写し、教えを銘記して忘れず、見て読み、節をつけて唱え、供養し、他人のために説く者を如来は衣によってこれを被(おお)う。そして世に出られている諸仏に心にかけられて守られることを得る。この人には、仏やその教えを信じ従う強い気持ち、望み願う力、諸々の善い報いを招くもととなる行いをする力がある。この人は如来とともにある。そして如来の手によってその頭を撫で給うことを得る。
あちらこちらに於いて或いは説き、或いは読み、或いは節をつけて唱え、或いは書き、或いは経巻を置く所には皆七宝の塔を建て、きわめて高く広く荘厳に飾る。そこには仏の遺骨を置く必要はない。理由はこの経巻の中には既に如来の全身があるからだ。一切の真理をあまねく知った最上の智慧は皆この経に属している。この経は人を真実の教えに導くために仮にとる便宜的な手段の門を開いて真実の姿を示す。この法華経の蔵は深く堅固で遙かであるから、人はよく至ることができない。如来の室に入り、如来の衣を着て、如来の座に坐り、そして広くこの経を説く。如来の室とは一切の生命のあるものすべてに対する大慈悲であり、如来の衣とは柔和な忍耐心、如来の座とは諸々の事物は因縁によって仮に和合して存在しているのであって、固定的な実体はない。この立場に立って、しかる後に善業を修めるのに積極的な心で諸々の悟りを求める修行者と出家者と在家者の男女の衆のために広くこの法華経を説くのである。
この経を聞く機会を得ることは困難である。信じて受け入れる者はまた得難い。大衆に対して恐れることなく、広く大衆のために諸々の事理を思量し、識別して説く。大慈悲を空とし、柔和な忍耐の心を衣とし、諸々の事物は因縁によって仮に和合して存在しているのであって、固定的な実体はないとする教えを座とし、この観点によって大衆のために教えを説け。
もしこの経を説くときに、ある人が悪口を言い、ののしり、刀や杖で傷つけ、かわらや石を投げても、仏を念ずるがためにきっと忍ぶであろう。私がこの世を去った後に、よくこの経を説く者には、私は神通力で作った四衆、出家した男子、出家した女子及び在家者の男女を遣わして、仏法によく通じ、人々を導く師となる者を供養させ、諸々の生きるものたちを悟りの道に導いて、これを集めて教えを聞かせる。ある人が刀や杖で傷つけ、かわらや石を投げようとすれば、すなわち姿を変えた人を遣わして、このために付き従い守らせる。
説法する人が一人で人の中から離れた静かで修行に適した場所にいて、静まりかえって人の声がしないのに、この経典を見て読み、そらで唱えるならば、私はその時に説法するために清浄で光り輝く体を出現させる。もし章や句を忘れたならば、そのために説いて精通させる。ある人が徳を備えて或いは出家者と在家者の男女のために説き、空虚なところで経を見て読み、そらで唱えれば、皆私の身体を見ることができる。この人は教えを説くことを楽しみ、諸々の事理を思量し、識別し、障害はない。諸仏が心にかけて守るために、よく大衆を歓喜させる。この法師に親しく近づけば、早く悟りを求める修行者の道を得る。この師に随順して学べば、ガンジス川の砂の数ほどの仏を見奉ることを得る。
妙法華経とは、仏が心にかけられて護られると名付けられた教えである。生死の迷いを超越し、悟りの境地を開かれたのが仏である。今まで一度もなかったことである。だれがこの娑婆世界に於いて広く妙法華経をよく説くことができるだろうか。今が正しくその時である。
間もなく如来は一切の悩みや束縛から脱した円満安楽な境地に入る。仏はこの妙法華経を委ねてそれが保たれるように願う。身体から言うに言われぬ美しい香りを出し、十方の国へ広がり、すべての生けるものは香りを浴びて自らの喜びをおさえることができない。誰がよく仏法を護るであろう。仏が衆生を救おうとする誓願を発して長く保たれることが得られるべきである。身心から放たれる光がある。常寂光。この経を説くならば、私(釈迦牟尼仏)と多宝如来及び諸々の様々な姿で現れた仏を見奉る。
諸々の仏法に帰依した男子よ。それぞれ真理を諦観する心で考えよ。これは難しい問題である。衆生を救おうとする誓願を起こせ。
仏がこの世を去った後、悪世の中に於いてよくこの経典を説こうとすればこれこそすなわち難しいことである。私がこの世を去った後、もしくは自ら書き、教えを銘記して忘れず、もしくは人に書かせる。これこそ難しいことだ。仏がこの世を去った後に、仏法の衰えた時代の悪世の中に於いて少しの間この経を読む。これすなわち難しいことである。仏がこの世を去った後、この経の教えを銘記して忘れず、たった一人のために説く。これすなわち難しいことである。
今仏の前に於いて自ら誓う言葉を説け。この経典の教えを銘記して忘れないことは難しい。もし少しの間でも教えを銘記して忘れずにいる者がいるならば、私はそれによって歓喜する。諸々の仏もそうである。このような人は諸々の仏が賛嘆するところである。これすなわち勇気があって何ものをも恐れないことであり、これすなわち雑念を去り仏道修行に専心することである。過ちを犯さないために、護らなければならない禁制を守り、衣食住に対する欲望を払いのける修行をする。この方法は速くこの上ない仏道を得る。来世に於いてこの経典をよく読み、教えを銘記して忘れずにいる者は、これこそ真の仏の弟子であり、素朴で穢れのない地に住む。仏がこの世を去った後によくこの教義を理解するならばこれは諸々の天人、人、世間の眼である。恐ろしい世の中に於いて少しの間でも説くならばすべての天人や人は皆供養する。
大乗の教えを求めることが目的となり、五欲を貪ることはない。心の中に言葉では言い尽くせない深い教えへの志があるために、身も心も善業を修めるのに積極的でない心の状態にはならない。浄らかな心で信じ敬って疑いを生じない者は、地獄・餓鬼・畜生の世界に堕ちず、十方の仏の前に生まれる。生まれたところでは常に妙法華経を聞く。人間や天人の中に生まれたなら、極めてすぐれている楽しみを受け、仏の前にあるなら、蓮華の中に母胎からではなく、忽然として生まれるであろう。
すべての衆生の平等な救済と成仏を説く教えの中のすべての事物は皆因縁によってできた仮の姿であり、永久不変の実体や自我などはないという意義を修行している。