人の生き方はそれぞれである。

 

生き方がそれぞれであると同じく死に方もそれぞれだ。

 

生き方も死に方も本人の自由でありそうだが、実際にはなかなかそうも行かない。

 

才能や環境や運や、もしかしたらちょっとしたタイミングで好きな生き方には制限がかかるかもしれない。

 

死に方も同様。3分後に思わぬ交通事故で死ぬかもしれないし、死にたいと思うほどつらい病床で長患いの末に果てるかもしれない。

 

生き方にも死に方も制限がある。親は選べないし、望み通りの子が生まれることも稀だ。

 

唯一、生死に本人の自由意思が働けるとしたら、それは自殺かもしれない。

 

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この本を読んだことはあるか?

 

畏友のK氏の問いかけはいつも唐突だ。昨日のことだった。

 

「死体は語る」

 

読んだことのない本だ。

 

確か外国の解剖学者だか法医学者が書いた有名な本だ。とK氏は続けた。

 

自分が読むに値する本かどうか、まず君が読んでみたまえ。君は確か英語ができたはずだから原典に当たってみてはどうか。ははは。それでは。K氏はあっという間に行ってしまった。

 

K氏の依頼なら何でも受ける。そして迅速に行動する。なぜならK氏の興味は多岐に及び、それがK氏の広範な知識を形成し、増長させているからだ。氏の知的好奇心を満たすことの一役でも担えるなら幸いである。そんな氏だから、本の一冊などという興味はすぐに忘れてしまう可能性がある。氏の地下鉄駅構内図についての私的ながらも重厚な研究は、おれが行っている架空送電線用鉄塔の浅薄な研究とはレベルが違う。

 

早速図書館のデータベースにアクセスし、その本を探す。あった。ついでに原典を探す。Cadavers Talkとでもいうのだろうか。ない。原典といっても英語とは限らない。ヘブライ語かもしれないし、医学書だったらドイツ語って可能性も高い。そうなるとおれには手が出ない。

 

そして今日、水泳教室のあと、我が本棚、と呼んでいる市の中央図書館に回る。

 

図書館員に奥の書架から出してもらった本がこれだ。

 

 

なんだ、全然翻訳本じゃないじゃないか。また肝心なところでボケてくれたな。

 

これは法医学者である元警察医の著作だ。本を裏返して奥付を見ると初版が1989年となっているから古い本だ。で、借りたこの本は1991年発行で、すでに62刷を重ねているから相当売れた本だと分かる。


 

貸出処理をして、空いていた椅子に座り、読み始める。昼飯を抜いてその時間を読書に充てることにした。

 

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タイトル通り、警察医が体験、見聞きした死体についての3ページから5ページ程度のレポートというより、それを昇華させた随筆集といえる。

 

死者が出てもその死因が判然としないことはよくあることらしい。または警察の思い込みで間違った死因が記録されそうになることもある。

 

殺人事件があった場合、現場検証や容疑者への尋問をしてもすべてが分かるわけでもないし、人は噓をつく生き物だ。

 

専門知識を持ち、経験を重ねた法医学者には死体がみずからその死因を供述する。

 

この本の中から1編選んでみるか。

 

それは「死者は生きている」という題のものだ。

 

「主婦はあおむけに布団に寝たままの姿で死んでいた。」という一文で始まる。少し長くなりそうだが、要約してみよう。

 

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その死体の首の下にはガスのホースがのびていてガスが放出されていたが、窓が半開きになっていたので室内は窒息を起こすほどのガス濃度ではなかった。死体の特徴から死因は頚部圧迫による窒息と考えられた。

 

この主婦に関連する情報としては、夫婦仲は冷え切っており夫には愛人がいたこと、事件当夜は夫は外泊していたことなどだった。

 

まずはガスホースで自らの首を絞め、それでも死にきれなかった場合のためにガスを放出させていたという自殺説が想定された。ところが自殺した場合、ホースに結び目が残るはずであるがそれがなかった。他殺なら殺した後に犯人はホースをほどくことができる。結局自殺か他殺かの判断はされず、頚部圧迫による窒息が死因とだけ診断された。

 

その後、自殺他殺両面から捜査は続けられた。

 

他殺としてはまず夫の犯行が疑われたが、彼にはアリバイがあった。自宅から遠からぬところにあるラブホテルに愛人と泊っていたのだ。彼以外にも近隣や知り合いが調べられたが犯行に結びつく情報はなかった。

 

警察医としては結び目の無い自絞死は考えられなかった。他殺しか考えられない。死体はそう語っていた。

 

5日目に事件は一気に解決した。夫と愛人が泊っていたホテルの従業員が口を割ったのだ。彼は愛人が外出するのを目撃し、それに気づいた愛人から幾ばくかのお金を渡され、見たことを誰にも言うなと口止めされた。愛人は2時間ほどして帰ってきたという。

 

その2時間の間に、以前より本妻に呼び出されていた愛人はビールと睡眠薬をもって本妻宅を訪れた。夫は寝ており、愛人の外出は知らなかった。愛人は本妻に不倫を詫び、夫と別れることを約束し、ビールを飲ませて、疲労回復剤と偽って睡眠薬を飲ませた。そして犯行に及んだ。自分があの男をもらう。眠った本妻を絞め殺したホースをほどき、ガスを放出させておけば自殺と思われるだろうと考えた稚拙な犯行であった。愛人は犯行を認めた。

 

🌻

 

だいたいこういう調子であるが、著者の死生観や、アルコール依存症が招く死や、中高年が行う激しいスポーツの弊害など、自分にとっては聞き捨てならないテーマもでも著者の知識や意見が書かれている。

 

K氏に連絡しなければ。

 

字の大きさや密度はこんなもの。ルビはふっていないが難しい漢字はなく、文は平易であって読みやすい。

 

 

これは学術書ではないし、難解な専門用語も少ない。

 

たいして分厚くもない。

 

 

受話器をとる。

 

「私です。読了しました。人の命にかかわる仕事もされているあなたが興味を持ったのは当然で、この本はその興味に耐える内容だと思います。是非ご一読されたし。今度飲むときに感想をお聞きしたいです」

 

ガチャッ。