ライバルというのは自分を高めてくれるありがたい存在だ。

 

ジャイアンツの全盛時代を引っ張ったのは長嶋選手と王選手だったが、この二人が同じチームで競い合って高めあっていなかったらジャイアンツも9連覇はできていなかったかもしれない。

 

栃錦と若乃花、大鵬と柏戸のようにライバルが並び立った時期は相撲界も全体が盛り上がっていただろうと思う。

 

芸術の世界でも同じことが言えそうだ。

 

ルネッサンス時期には多くの芸術家が活躍したが、その中でもダビンチとミケランジェロが2大巨頭といっていいだろうと思う。

 

正式にはレオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロ・ブオナローティという名前らしいが、日本では一般的に「ダビンチ」と「ミケランジェロ」と呼ばれている様だからそう書かせてもらう。この二人はライバルだった。

 

ダビンチは思っていたより寡作な芸術家で、絵画については完成作品は20点ほどしかない。「モナ・リザ」とか「最後の晩餐」などその一つ一つがあまりに偉大な作品なので寡作感が薄いのだろうと思う。ただしその少ない作品にかける情熱はすさまじく、人物を描くために解剖学を学んだ。決して表面だけを描こうとしたわけではなかった。解剖に当たっては莫大な量のスケッチを残しており、それが現在の医学書でも使用されているという。そして彼の残した芸術はほとんどが絵画だ。

 

↓ダビンチのスケッチ

 

一方、ミケランジェロの方は多作だ。「システィーナ礼拝堂の天井画」や「最後の審判」など規模もスケールも抜群にデカい。そしてミケランジェロの芸術は絵画にとどまらなかった。というよりもともと彼は画家ではなくて彫刻家であった。彫刻としては「ピエタ」や「ダビデ像」が有名だ。彫刻家だけど、あまりに才能が有るので、気がついたら絵も描かされていた、といった感じだったかもしれない。なんでおれが絵を描いてるんだよ、絵だったらダビンチとかに頼めよ、みたいに。

 

↓システィーナ礼拝堂の天井画

足場を組んで仰向けに寝転がって描いたといわれる。描くより彫りたかったのかもしれない。

完整再现西斯廷教堂天顶画的意义 | 大冢国际美术馆的特色 | 大冢国际美术馆 - 四国

 

ダビンチはミケランジェロより23歳年上であったが、二人はライバル視しあっていた。絵画と彫刻という芸術についての優劣や考え方にも違いがあった。

 

その二人が直接対決する機会があった。

 

それは宮殿の大広間の壁画である。ダビンチとミケランジェロに対して、一つ部屋の二つの壁にそれぞれ大壁画を描くことが依頼されたのだった。ダビンチは得意な馬を主題にして「アンギアーリの戦い」の絵に取り掛かった。一方、ミケランジェロはダブらないように馬は避けて「カッシーナの戦い」を主題とした。

 

↓アンギアーリの戦い

 

 

↓カッシーナの戦い(ミケランジェロの弟子による模写)

 

ミケランジェロの弟子アリストテレス・ダ・サンガッロによる模写。

 

しかし、この対決は決着がつかなかった。

というのも、ダビンチの方は下絵は描いたものの、彩色の際に雨水が流れ込んできて下絵が流れてしまい、ギブアップ。かたや、ミケランジェロの方は描いている途中でローマ教皇に別の用事で呼び出しを食らってリングアウト。結局、両作品とも完成して日の目を見るに至らなかったのだった。芸術至上、最大の対決はこうして不発に終わった。一つの部屋で両巨匠の大作品を見ることが出来たら、、、。これも歴史上の一つのIFと思ってもいいのかもしれない。

 

自分がこうしてのんべんだらりんと日々過ごしてるのも強烈なライバルがいないからかもしれない。だから仕事も遊びも高まることもなく常に低空飛行だ。人に威張って紹介できるようなライバルがいれば、と思うが、戦いの場に立ってさえいない自分にいまさら気がついた。そんな週の真ん中のさえない水曜日である。