年をとるとケチになる。
幸田露伴は「望樹記」という随筆をこう書き始めている。
随分昔には違いないがそれがいつだったのか、誰に聞いたのか思い出せないが、今になってその言葉が時々思い出されて仕方がない、ということから始まる文章だ。
この随筆を書いた時の露伴は53才であった。ほぼ今の自分と同年代である。
自分は若い頃からケチだし、文豪のような濃密な人生経験を経て辿り着いた50半ばの年ではない。誕生日は同じ日なれど、自分より101年前の江戸時代は慶応三年に生まれた文化勲章第一号の大作家の境地が分かるはずがない。
しかし、その自分の未熟さのせいだろうか、今日はこの年になってようやく今後時々思い出してしまうのではないか、という言葉を思い出してしまった。
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今日はとても美しい日である。
晴れていて暑くなく寒くなく、空気は乾いていてほどよくそよ風が吹く。毎日こんな天気ならばよいのに、と思うほどだ。
でも、もし本当にこんな陽気が毎日続いて当たり前であったら、こうして今日のこの快晴を楽しむことはないだろう。寒い日があって、暑い日があって、雨の日があるからこそこのもう初夏に近い美しい日をありがたがることができる。
そう思うと心に雨が降ったような鬱々とした日があってこそ、気分の晴れ晴れする日を味わえるのであって、毎日るんるんしていたらうれしいことさえ当たり前に思えて、それは本当には幸福とは言えないかもしれない。
それに晴れた日でも心は鬱々とすることもある。
一方、今日のような快晴の日もいいが、お天気雨という気象も嫌いではない。日が出ているのに雨が降る。そんな日は普段ならさす傘も放り投げて、日とともに雨も浴びたくなる。そうする方が気持ちよいとさえ思える。
鬱々としながらも、新しい晴れ間が見えた気がすることもある。
そんな陽気な中、今日は朝9時前に自転車で図書館へ行った。出張に帯同する本を借りるためだ。とりあえず文庫本を10冊。あとは自宅でその中から5,6冊厳選に厳選を重ねて選抜する。出張中に10冊くらい読めそうだが、さすがにスーツケースが重くなる。
そういえば、と思い出した。飛行機は朝早い便なので、空港の本屋はまだ開いてないはず。であれば旅の友である文藝春秋を買っておかねば。
で、またまた思い出したのだが、もう何年も前のことだが、図書館の近くにある本屋に同じ目的で入ったことがあった。その時も文藝春秋を探したのだが、なかった。ないはずがなかろうと探したのだが、ない。で、アルバイト風の店員に文藝春秋はどこでしょう、と尋ねたら、「うちは文藝春秋は置いてません」と言われたのだった。
は?と思った。
文藝春秋を置いてない本屋などこの国にはない、くらいに思っていたからだ。あの言い方、在庫切れとかの感じではなかった。この本屋は私鉄が経営するチェーン店である。何か強烈なイデオロギー的に扱えない経営方針でもあるのだろうか。あるいは他の出版社との資本関係などから扱えないことでもあるんだろうか。なんとなく悶々としながら本屋を去ったことを思い出した。
では、その本屋はやめて他の本屋に行くか、とならないのが天邪鬼である。あの記憶が本当か確かめたくなった。わざわざ少し離れた駐輪場に自転車を置いて歩いて件の本屋へ入る。
文藝春秋、あるじゃないか!
店員に尋ねるまでもなく、店に入るなり四つの山になって平積みされているのが見えた。
確かにあの時あの店員は言ったのだ、うちは文藝春秋は置いてません、と!
本屋がポリシー変えたのか。おれの頭がどうかしているのか。前回は悶々として後にした本屋だったが、今日は文藝春秋の山を見て愕然としてしまった。
平積みされた中から上から3冊目を抜き取ってレジへ。3冊目なら多分誰も触ってない。レジ係に、経営方針変えたんですか、と聞きたい気持ちを抑えてクレジットカードを財布から取り出した。おれの記憶は絶対に間違ってない!心の中でそう叫びながら。
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年をとるとケチになる。
そういう書き出しで始まるこの随筆は文庫本にして50ページ以上の分量がある。この「望樹記」という随筆は、大正九年の発表当時は「ケチ」というタイトルだったらしい。同じケチでも露伴さんが言うのと自分が口にするのとではまるで重みが違う。この随筆を読めばよく分かる。
それに比べて、自分が今後時々思い出してしまいそうなのは「うちは文藝春秋は置いてません」という重みも意味もない、どーしよーもない言葉である。おそらくいいかげんなアルバイト店員が文藝春秋を知らなかったのか、単にめんどくさかったのか、であんなことを言ったのだろう。そうとしか考えられない。彼の罪は重い。
それにしても、こんな言葉を背負って余生を過ごさねばならぬのか。それは嫌だ。
現在、脳内で「うちは文藝春秋は置いてません」を「年をとるとケチになる」に刷り変え作業中である。どうせ思い出してしまうのなら文豪と同じ方がいい。でも、本当に刷り変えできたら、ケチに拍車がかかりそうで、それも気がかりではある。