文系大学生にとっては単位がとり易い芸術系の一般教養の授業は人気だった。出席しなくても単位は取れる。


特にe教授の美術とt教授の音楽には学生が集まった。


集まったと言っても応募だけで、教室は閑散としていた。出席してなくても単位は取れるのだ。いい時代だった。


自分はe教授の美術はサボってもt教授の音楽には毎回出席した。メンデルスゾーン、シューマン、ショパン、リストなどのロマン派が専門の、プロのピアニストでもある教授は授業ごとに一曲実演してくれた。


リストは、と細身でロマンスグレイの教授は前置きして、ショパンと並ぶピアニスト兼作曲家であったけれど、ショパンのようにピアノ曲ばかりを書いたわけではない。交響詩というそれまでになかった分野を開拓したし、ロマン派以降の音楽界に残した影響は大きい。確か教授はそんな講義をなさった。アンチショパンではないけれど、天邪鬼な自分は触発されて個人的にリストのことを勉強した。


そのころの授業で教授が弾いてくださったのが、リストの愛の夢3番だった。今思えばとてもベタな曲である。


しかし、初めて聴いた実演は聴いて震えるような演奏だった。こんな曲、プロに目の前で弾かれたらノックアウト必至だ。



家にあった姉のベーセンドルファーの埃を払って初めてピアノに向かってみた。図書館で楽譜を借りてコピーして、教授の真似をして弾いてみた。何ヶ月かかっただろう。指の骨が折れるほど練習した。とても人には聴かせられるものではないが、なんとか弾き通せるようにはなった。


その夏休みにニューヨークに旅行した。そしてあるレコード屋でラフマニノフが自作のピアノ協奏曲を自演したCDを見つけて買った。


休みが明けて、音楽の授業のあと、畏れ多くも教授にそのCDをお見せした。教授は少し驚いて、こんな音源があるのですね、少しお借りしてもよろしいでしょうか、と仰った。今思えば、教授はその音源のことなど知っていたに違いない。


しばらくして教授はお貸ししたCDと分厚い封筒をお返しになった。封筒の中身は教授がかつて書かれた論文の束であり、当然、音楽素人の自分には読解できるものではなかった。


その封筒の中には一葉の絵葉書があって、ラフマニノフは協奏曲2番より3番の方が演奏としては優れてますね、そして、今度銀座でビールでも飲みながら音楽の話をしませんか、としたためられていた。


自分は驚愕するとともに萎縮した。


そして音楽の授業をサボるようになった。


あの時、教授のお誘いをおしいただいて教授とビールを飲んだいたらどれほど有意義な時間がもてて、その後の自分の人生の糧となっていただろう。


でも世界が違い過ぎた。


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ピアニストのフジコ•ヘミングさんが亡くなったと報道された。


ロマン派のピアノいえばショパン一辺倒の日本にリストを広めてくれた功労者でもある。


そのニュースを聞いてt教授を思い出した。もう鬼籍に入られたことは間違いない。


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ショパンは女性的で日本人の琴線に触れるのは分かる。娘の出るピアノ発表会でもショパンの曲はよく演奏される。


どちらかというと男性的で技巧的なリストはあまり顧みられない。


だが、リストファンを募るなら、こんなことでもお伝えしておきたい。


フランツ・リストは高身長で超イケメンで、一人で一夜の演奏会を披露するリサイクルというものを初めてとり行った稀代のエンターテイナーでもあった。そしてブラームスなどの後進に道を示した指導者でもあった。娘はワーグナーの妻となった。




リストの再来!と騒がれたピアニストは何人いただろう。本当にリスト二世のお墨付きをもらったピアニストを知らない。


ヘミングさんのご冥福をお祈りします。