これまで少なく数えても6、70回は海外に出ている。出れば必ず複数都市をまわるから、少なくとも3、400本の国際線に乗っているはずだ。


墜落はなかったのは当然だが、欠航とか大幅な遅延とか預け荷物の紛失などの割と重大な事案には遭遇したことがない。運のいい旅行者といえた。


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水曜日。

朝4時55分に地元を出るバスで羽田へ。ドバイとリヤドとバンコクを巡る旅の始まりだ。朝早いのはつらいが、第一目的地のドバイには同じ日の現地時間の19:00に着く。ドバイ空港の免税店でウイスキーを買い、ホテルのそばのレストランでビリヤニを買っていても、21時にはホテルに入れるだろう。サウジでの断酒前の祝杯を楽しむには悪い時間ではない。


ドバイまでは中国東方航空でつなぐ。まずは羽田から乗り継ぎ地の上海へ。3時間。これから始まる長い旅の序奏といったところ。



上から申し訳ない、と言いたくなるような景色。上海は思っていたより近く、この辺までは順調だった。ある一つのできごと以外は。


その短時間のフライトでも食事が出るようだ。後方から配膳の音がしてくる。期待してなかっただけにラッキー、と思ってしまった。中国人のCAが、英語でチキンライスかなんとかか、と聞きにきた。え、チキンライスあるの?やった!カオマンガイみたいなものかな。おれの大好物じゃん。そっちに気が行ってもう一つの方は聞き取れなかった。考えるまでもなく、チキンライス、とオーダーした。フルーツを食べてから、さては、とメインディッシュの銀紙のカバーをはずしたら、でーん、と真っ黄色なオムレツが姿を表した。おーい!心の中でさけんだが、口に出しては言えなかった。


大したことではなかったのだが、でも今思えば、鍵のかけ違いが連続したこの日一日を運命づけるような象徴的なできごとだったのかもしれない。


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上海での乗り継ぎ時間は2時間。ちょうどよい。セキュリティチェックを受け、トイレを済ませてドバイ行きの搭乗口へ歩く。ほとんどが中国人客のようだ。


その人たちが騒がしい。何かと思ったら出発の遅れのようだ。天候によるものらしい。確かに雨は降っているが、出発ためらほどか?中国の人は意外と慎重なのだろうか。1時間くらい待つことになろうか。ベンチに腰掛けて、本を展げる。


だが、しばらくすると、英語で、乗り継ぎでドバイへ向かう人!と呼ばれる。家族連れ含めて15人ほどが集まった。ドバイ難民といえようか。簡単に、フライトを変えます、ついてきてください、と告げられた。


秘密鍵で開錠されたドアを抜けて、普段一般客が通れない通路を1列になって歩かされる。複数回に分けてエレベーターで降ろされ、誰もいない白い部屋の白いカウンターの前に並ばされる。おれは前から2番目になった。


説明があった。ドバイが大雨の為、欠航になった。他の航空会社の便でドバイかドバイ近辺の空港へ送ることにする。ついてはどの便がよいか申告せよ、とのことだ。いきなりそんなこと言われてもなあ。


それにしても砂漠のドバイで雨だと?言ってること、分かってんのか、この人?


実はすでに上海空港ではWifiがつながらないのは試して分かっていた。どの便がいいかなんて調べようもない。しかし中にはどうやってるのか知らないがインターネットにつないで調べてる人もいた。


先頭の背の高い西洋人が、これにしてくれ、とスマホの画面を係に見せた。それを見て係は急いでコンピューターを操作する。それを待つ間に西洋人に便を聞いた。キャセイ航空で香港経由でドバイへ行くと言う。時間を聞くと自分には厳しいかな、という感じだった。ドバイへは今夜遅く着くはずらしい。


一方、若い2人組のイスラエル人はカタール航空でドーハ経由でドバイに近いシャルジャを目指したいという。そのルートを見せてもらう。どうすっかな、おれ。


まあ、自分もそれにしようと思った。ジャルジャには翌日の午前10時半に着くという。ただし上海発は夜中の0時半だ。上海に着いてから13時間後になる。長い上海の夜になりそうだ。


ジャルジャ空港からはドバイまでバスがあるはずだ。今夜のウイスキーとビリヤニは諦めた。ドバイは明日もう一泊するから明日やればいい。


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随分待たされたが全員分の手配は済んだ、ということで、それぞれコンピューターが打ち出した紙を渡された。おれは一旦中国に入国して預け荷物を受け取り、E3へ行け、と言う。紙にE3と手書きして渡してきた。



促されるまま入国審査に進む。できれば入国したくなかった。色々めんどくさいんだ、この国。


しかたなく、入国してしまった。預け荷物を探しに行く。言われたところに行ってもない。係をつかまえて事情を話すとあっちへ行け、と言われ、あっちへ行って聞くと、こっちじゃなくてそっちだと言われる。やばいパターンが始まった。聞く人によって必ず違う答えが返ってくる。どうすりゃいいの。


最後に預け荷物の元締めみたいなブースを見つけて聞くと、預け荷物が出てくるターンテーブルの13番で待て、便を変更したのなら少し時間がかかるぞ、と言われる。


13番に行くとそこにはさっきの背の高い西洋人がいた。よう!みたいに顔を合す。話してみると彼はドバイ在住のドイツ人で同じ便で東京から来たという。日本へは観光で4回目。今回は12日かけて奥さんと東京、京都、大阪、箱根、日光を回ったという。日本はいい国だ、という。


なんで中国東方使ったの?同じ飛行機乗ってたおれが聞くのも変だけど。ああ、やっぱり。安いからね。4度も行ってればおかしなことも知るもんだ。


彼の奥さんは一日早く日本からドバイへ帰って、ドバイは大雨で大変なことになってると連絡が来たという。地下鉄は止まり、タクシーは全然来ないらしい。ほんとなんだ、ドバイの雨。


それはよしとして、話してみたらこの13番に辿り着いた行程はおれと全く同じだった。彼の紙にもE3と書かれている。中国はダメだ、まるでオーガナイズされていない、とドイツ人らしい物言いをした。おれたちのスーツケースは迷子になったようだ、と言って不機嫌そうに笑った。


おれは時間があるが、彼が乗る香港行きの出発まであと3時間しかない。とうとう彼は実力行使に出た。預け荷物ブースに乗り込んで穏やかながらキツめに上から係を理詰めで責めたてる。おれも横からザッツライトザッツライト(そうだそうだ)とけしかける。


しようがない、そんなそぶりで係はついてこい、そっちの日本人もだ、と言うと持ち場を離れてスタスタ歩き出した。持ち物検査の長蛇の列をどんどん割り込んで先に進み、エレベーターで3階に上がる。するとそこにはEと書かれたカウンターがあり、20個ほどのスーツケースが集められていた。E3って3階のEカウンターってことか。ドバイ難民たちのスーツケースだろう。おれのスーツケースもある。なんだかずうっと前からここにあったんじゃないかと思うように、スーツケースたちはおとなしく佇んでいるように見えた。迷子になったのはスーツケースじゃなくて、おれたちだったんじゃないか。


ドイツ人はスーツケースを2つ持って、グッドラック、とこっちに向かって言うと走り去っていった。



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さておれは、と思っていたら、係は違う係を呼んで今後の動きを説明させた。


お前がこれから乗るカタール航空はこっちじゃなくてあっちのターミナルから出る。そこの3番のドアから外に出て、黄色いターミナル連絡バスに乗れ。5分で着く、と言われてその通りにした。


上海空港にもターミナルが2つあるのか。第2ターミナルはあのビルか。ターミナル間は環状の道路で結ばれている。歩いたら相当ある。



ところが黄色いバスは全然来ない。10分で一週するはずだ。人の乗り降りを考えても20分待てば来るはず。雨も降っていて、タンクトップに薄手の長袖では寒くなってきた。どうしたもんだか。


一度出てしまったので建物にまた入るには全ての荷物を一からセキュリティチェックされる。しかし外にいてはラチは開かない。中に入って誰かに聞こう。めんどくせー!


中には一応ヘルプデスクがあった。当てにならんが他にまともな答えが返ってきそうな人はいない。デスクにいたのは目が覚めるような美人であった。こういう人ほどあてにならんものだ。が、E3の紙を見せると、パパッとコンピューターをたたいて、この飛行機はターミナル2から出ます。ターミナル2へは2階に降りてから専用通路を歩いてください、10分で着きます、とはっきり言った。



ほんとにあった。環状の道路の直径のような一直線の広い屋根付きの歩道だった。黄色いバスってなんだったのよ。ほんと、とほほ、だ。

またまたセキュリティチェックを受け直してターミナル2に入る。まだドーハ行きの飛行機の出発まで7時間ある。

どの空港も案外ベンチが少ないものだ。上海空港も同じで少ないベンチはだいたい埋まっていた。でもおれには7時間もある。立ったまま過ごせる時間ではない。多少無理矢理、両隣に人が座っている空きベンチにどっかと腰を下ろした。おれの長い夜が始まった。しかし、やがておれは長いのは夜だけではないことに気づくことになる。

おれを暇から救ってくれるのは文藝春秋と小説とスマホ。スマホといつても大したことをするわけではない。スマホで原始的なトランプのセブンブリッジをやる。10分で飽きる。小説を読む。暗いし字が小さくて読みづらいのでやめる。でも10分はつぶせた。おれに意地悪してるんじゃないかってくらい時間が経つのが遅い。時空は歪むことがある。

まわりのベンチは人が入れ替わる。誰かが去って、またそこに誰が座る。おれのベンチだけが不動だ。やがてベンチの牢名主みたいになった。

その牢名主は見たくないものを見てしまった。左隣のベンチにスマホが置いてある。さっきまで黒服の若い男が座っていたような。いつの間に去ったのだろう。

こういう時、どうしたらいいのだろう。うっかり拾ったら、誰かが見ていて、コイツ泥棒だ!と叫ばれたらこの国ではヤバい。弁明しきれないだろう。かと言ってほっとくのもどうか。失くした本人は今ごろパニックに陥っているのではないか。いや、大事なスマホだ。すぐに気がついて飛んで戻ってくるだろう。しばらく様子みるか。

しかし10分経っても帰ってこない。どうすっかな、これ。そこへ屈強な警察官が歩いてきた。これはチャンスと呼び止めて、スマホを指差して、誰かが置き忘れてました、説明する。警察官はスマホを取り上げて、おれの反対側にいた中国人親子に何か言った。誰かが取りに来たら警察が持って行ったと言ってくれ、とでも言ってるんだろう。通報したおれは無視された。ま言葉ができないんじゃ、しょうがないか。そしてその親子が去ってもスマホオーナーは現れなかった。今、確実に不幸になる人間が一人いるとわかると、なんだか自分までが不幸になった気がした。

そういえば腹へったな。朝早くから子供騙しの機内食しか食べていない。しかもチキンライスのはずがオムレツだったし。まだ根に持ってんのか、おれは。

あの緊急食糧の柿ピーは預け荷物に入れちまったしな。預け荷物?今おれが足乗っけてるじゃないか。そうか、このカバンを探すのにすったもんだしてたじゃないか。早速スーツケースを開けて柿ピーを取り出す。ついでに日本時間の明日の朝分の降圧剤も出しておく。

柿ピー、うまい!さすが緊急食糧だ。喉乾きそうだがまあいいか。ぽりぽりぼりぼり柿ピーを食べ続ける。緊急食糧に初日から手をつけてしまうのはなんだか先行き不安だが、緊急事態に食べてこその緊急食糧だ。今がその時だ。



お、さっきから30分くらい経ってる。


続く