人の心は脆いもので、他人の声や自分の過去の経験や気象などにも弄ばれる。
快晴な日には思いもしなかったことが、雨の日には深刻に思えたりする。
同じ雨でも暴風雨と、しとしと降る雨では心に与える影響は異なる。
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ショパンはサンドを待っていた。
パリの流言と喧騒から離島に逃避した二人は修道院に仮の居を定める。病弱な恋人のために買い物に出かけたジョルジュ•サンドは帰りに大雨にあって雨宿りする。それを待っていたショパンはこんな曲を書いた。左手のAの音の一定のリズムが雨音を刻む。
R.S.
雨にも色々あるように、ピアニストによってもショパンのこの雨垂れという前奏曲の解釈は様々だ。
いくつか聴いてみたけれど、このリヒテルのモスクワでのライブ版を推す。
この演奏の印象。サンドは歩いて帰れないほどの暴風雨ではない。待っているショパンをわざと焦らすような、それでいて雨音のひとつひとつが耳に響くような、そんな雨をサンドは楽しんだのではないか、そしてそれをショパンは知っていた、、、そんな演奏に聴こえる。そう仮想したら、ホロヴィッツの痛切さよりリヒテルの包容力の方が心地よい。微笑んで聴く曲だと思わせてくれる。
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焦燥は感情のスパイスにもなりうる。抱擁に甘えたくなる春の日の雨の雫は、石にしみず利己の自責に耐え難い焦燥をあおる。雨が降る。大切な人を抱きしめるより離れて見つめていたい時もある。
最後の最高音の後、まだ止まぬ雨の中を少しはしゃぐような気持ちで歩き出したサンドの足音が聞こえる。そこまで言ったら深読みしすぎだろうか。
ショパンに雨を聴く。