昨日は酒を飲んじまった。

7日断酒の末である。

 

飲んじまうか!というスイッチはいとも簡単に入るものだ。

たわいもない理由が見つかると頭が反応する前に指がポン!とスイッチを入れていた。断酒の岸から帰ってくる橋は実に短い。断酒の彼岸に渡る橋はあんなに長かったのに。

 

ま、これも断酒中の自分観察の一環である。鋼鉄の意志を持っていると自負していても実際はこんにゃくのように柔らかいのか。自分なんてこんなもんである。

 

改めて酒を飲んでみると、なんだこんなものか、という感想である。

 

近づきすぎるとよく見えなくなる。そういうことは酒に限らずよくあることだ。

 

当たり前に身近にあるものほどいつの間にか実態をつかめなくなっている。少し遠ざけてみていると、ああもともとはこうだったな、と思い出すのである。自分のものだと思いこんで抱きしめていたものも、手を放して見上げてみればそれは、ああこれは自分のものではないもっとひんやりしたものであったか、と気が付いてあたふたしてしまうこともある。断酒をやめるだけで色々教訓があるものだ。と断酒失敗の意義をでっちあげておく。

 

昨日はだいたい緩んでいた。2週ぶりに訪れた日帰り温泉の後、断食明け後も避けていた油と動物性たんぱくを摂った。つまり中華料理屋で油淋鶏定食を食べた。ついふらっと、である。

 

靴の中に目に見えないほど小さい石粒が入っていても足の裏は違和感を感じるし、舌の上に髪の毛が1本乗っても同じである。思っている以上に人間の神経は繊細だ。身体もそうであるから精神もそうであろうと想像できる。靴の中の石粒のように小さい棘でも心に刺されば気になりだすし、玉であればうっとりする。それは手で摘まんで見てみればなんてことはない石粒みたいな焦燥であったり弛緩であったりする。昨日はうっかり弛緩した。

 

いつもは油淋鶏定食に100円足してスープをラーメンにグレードアップし、無料のご飯をおかわりをする。昨日はさすがに断食明けで胃が小さくなっていたのは自覚していてラーメンはやめた。からっと揚がった鶏肉を箸で摘まんで食う。胃に負担がかかるのを恐れてなん度もなん度も細かく咀嚼する。ああ、おれはこんなものが食べたかったのか、と嚥下しながら少しがっかりする。これがおれの好きだった油淋鶏か。7日間ずっと食べたいなあと思っていた油淋鶏か。まずくはない。でもあこがれていたあれとは違う。わざわざ700円出して食うほどのもんじゃないな、と思いながら半分は食べた。大好きなご飯も3分の1は残した。ご飯を残すなんて自分でも信じられない。これも好物の揚げ餃子が2個ついていたけれど、一つ食べて油の悪さをのどが拒絶した。食べなきゃいいのに杏仁豆腐を食べたらこれはうまかった。

 

それにしても、だ。

先週の4日間断食は体を変えた実感があった。たった4日で、である。腹はぺしゃんこになり、顎のラインが鋭角になった気がする。頬を触ると輪郭が浮き出てる。4日あれば心も変わる。やる前と後では生活態度もかなり変わった。4日間断食はやっている最中はなんてことはなかったけれど、今思うと再現するのはすこしばかり恐怖だ。毎週4日連続で断食するのも悪くないとは断食明け直後には思ったけれど、今考えるとそんなことしたら精神的に一線超えて帰ってこれなくなりそうでやはり怖くなる。おれは元来怠け者で酒浸りのでそれを享楽し溺没するタイプの男だ。そんなおれでもたった2日ならまたやれそうな気がする。連休明け、さっそくそのきっかけになりそうな徒歩通勤を再開した。断食3日目は体力的に片道7キロ歩ける自信がなくなる。

 

残念なことに今日は暖房設備の故障で水泳教室は休みで、普段出かける時間に職場でくすぶっている。散歩ができない犬のようにいらいらしつつある。昨日飲んじまったことだし、断食明けのあの気分を取り戻すためにも今日から断酒はもちろん健診までは永続するし、ついでにまた2日くらい断食するか。やらなかったらそれはまた心の棘になりそうである。