廬山白蓮は白い八重。

 

 

 

 

 

 

写真映りのよい角度で咲いている輪はなかったけれど、池に落ちそうな態勢で無理やり撮影。今朝は軽度ながら二日酔いだったので、こんな写真でも結構な危険を冒して撮影したものだ。

 

こんなに真っ白い花もあるもんだな、と感心する。

ちなみにこの池には植えられていないけれど、蓮の中でも真如蓮という一重の純白の蓮が一番好き。

 

真如蓮(借りた写真です)。

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昨日の夜はお稽古だった。

夜友がオンラインで待ってくれていたので急いで帰宅した。飲み始めたのは9時を過ぎていた。その友達が教えてくれたこれを試してみた。

 

 

自分で炭酸水で割ってチューハイが作れる。

この紙パック1本で36杯分のチューハイが作れるとはお得だし、買って持って帰るのもかさばらずに楽だ。自宅にはレモン炭酸水が大量にストックされている。

 

ただし、実際に自分で割ってみたのだけど、どのくらいの濃度に割ったか判然としないのでアブナい。言い換えれば、いくらでも濃いチューハイが作れるのだ。事実、今朝の若干の二日酔いは、昨夜自分で割って拵えたチューハイのせいであろう。

 

先日、東京スポーツが12%のチューハイを開発したというニュースに瞠目したのだったが、自分で割れば12%ごときなんてぶっちぎる濃度のチューハイだって作れるのだ。自分の場合どうしても濃く作りたがるので、昨日は実際はアルコール度数は優に10%は越えていたと思う。

 

夜友にそう話したら、しまいには割らずにロックで飲むことになるね、と自分も考えていたことと同じことを言われた。酒飲みは同じことを考えるものだ。結局これと変わらない。

 

 

 

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こどもの頃、八甲田山、という映画を見た。

真冬の八甲田で雪中行軍という訓練をする明治の軍隊の遭難譚だ。

 

その映画の中で、別々の部隊に所属する兄弟がいて、行軍中に兄のカバン紐が切れる、というシーンがあった。その瞬間、兄は遭難しかけている別の部隊の弟の死を直感するのだった。実際、弟は遭難死した。そのシーンがばかに心に残っている。

 

昨夜持って帰った稽古道具を、今朝は職場へ担いで歩いていたのだが、蓮の観察のあと、その道具を入れたカバンの紐が切れた。

 

切れて肩からどさっと落ちたのだが、その瞬間何が起きたのか分からなかった。やっと事情が呑み込めて、すぐに八甲田山を思い出した。そして別の会社で働く弟のことを思い出したが、能天気で極楽とんぼの彼に何かが起きたという予感は全くなかった。

 

実はこの紐が切れるのは二度目である。一度目は買ってすぐに切れた。見たら縫合不良で、道具を買ったらただで付いてきた中華製の安物だったので、むべなるかな、と捨て置いて、自宅にあったパソコンケースの肩紐を代用にしたのだった。

 

今朝切れたのは、その元パソコンケースの肩紐だった。

 

正しくは、切れたのではなくて、金具の接合部がすり減って外れたのだ。

 

 

 

 

それだけよく持ち運んで、よく稽古したのだといい方向で考えることができた。これは不吉なことではない。

 

 

しばらく前に、普段から手首につけている念珠の紐が切れたことがあった。京都の東寺で買った念珠で、これをしないと気持ちが落ち着かないくらい、体の一部のようになっている。おんぼろの中華料理屋で切れた。幸い珠はすべて回収できて、ゴム紐を新調して事なきを得たのだが、ものすごい不吉感を味わったのだった。念珠の紐が自然に切れるなんて、、、

 

 

因みに、ド迫力の唐揚げ定食を出すので贔屓にしていたその所沢の中華屋は、その後訪れたら建物ごと無くなっていた。建て直すのか廃業するのだか分からない。念珠の紐切れとなにか関係があったのかどうかも分からない。

 

その不吉感から救ってくれたのは、そのことを書いたブログ記事を読んでコメントをくださったある読者さんだった。

 

曰く、念珠の紐が切れるというのは、仏様がある悪事を身代わりになって受けてくれたこと、あるいは本人のステージが一つ上がった事である。

 

全然不吉なことではなくて、むしろ瑞兆なのであった。心配症で妄想狂のおれのことだ。あのコメントを頂かなかったら、当分悪い気分で過ごしていたはずである。

 

「縁は切らずに結ぶもの」

そう大きく墨書された掲示板を見上げたのは熱暑の日、ある人と縁が切れそうだったときに徒歩巡礼していた秩父三十四観音霊場のあるお寺だった。

 

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廬山白蓮は白い八重。

 

蓮は泥水の池から真っ直ぐ茎を伸ばし、その先に綺麗な花を咲かす。

蓮華の五徳、という言葉がある。

 

自分の如くが書くのはおこがましい。

 

よろしければ生蓮寺様のホームページで。