空閨残夢録 -10ページ目

空閨残夢録

上層より下層へ 
中心より辺境へ 
表面より深淵ヘ 
デカダンよりデラシネの戯言







 赤穂浪士が吉良邸へ討ち入りした日は、元禄15年12月14日であるが、これは旧暦なので現代では1月20日頃と考えられる時期。そして元禄15年は西暦の1703年である。



 討ち入り決行の当時は、前日から降りしきる雪が、当日の昼すぎには小降りとなった。・・・・・・浪士一行は午後に矢ノ倉の堀部弥兵衛宅へ集会する。



 浪士一同は堀部弥兵衛の妻と、安兵衛の妻による料理を腹ごしらえにして、吉良邸へと討ち入りへと向う。・・・・・・堀部宅に集まったのは総員の3割ほどで、その他の浪士は本所を中心に3ヵ所に分散して集合している。



 大石内蔵助と主税の父子が集合した場所が堀部宅であり、歌舞伎や映画の忠臣蔵では、蕎麦屋の2階に47士一同が集会する設定が多いのだが、討ち入り前に蕎麦は食べていない。



 されど、しかしながら、現実には内蔵助が食したものは、堀部家の奥方による手料理で、菜の吸い物に煎り焼いた鴨肉入りの生卵かけご飯だったのが史実なのである。



 池波正太郎の小説である『おれの足音』は、大石内蔵助の半生を描いた作品なのだが、討ち入り前の食べ物をこのなかでさりげなく描写されている。



 池波氏の食にまつわるエッセイで、このところを詳しく説明したものがあり、鴨肉は2羽ほどを鉄鍋で炒りつけて、これを細かく刻み、大量の生卵をといた大鉢に、鴨の肉を混ぜ合わせて、浪士のご飯茶碗へかけて食べさせたようである。



 池波氏もこれをまねて実践したところ・・・・・・なかなかの旨さであったとあり、ボクもこれを自分で狩猟した鴨を使い調理を試みたが、ナルホド!・・・・・・これはイケルと堪能した。




さて 『鬼平犯科帳』シリーズにも斯様な鴨料理の描写があるので以下に記述する。



------------------------------------

 


平蔵が入浴を終えて出て来ると、久栄が酒の肴の支度をととのえ、侍女に運ばせ、居間へあらわれた。

 「鴨じゃな」

 「はい」

 鴨の肉を、醤油と酒を合わせたつけ汁へ漬けておき、これを網焼きにして出すのは、久栄が得意のものだ。つけ汁に久栄の工夫があるらしい。今夜は、みずから台所へ出て行ったのであろう。

 それと鴨の脂身を細く細く切って、千住葱と合わせた熱い吸物が、先ず出た。

 「久栄。わしに、このような精をつけさせて何んとするぞ?」

 「まあ・・・・・・」

 久栄は顔を赤らめた。



                                                 『火つけ船頭』



-----------------------------------


 鬼平では鴨は酒肴なので、「鴨と葱のお吸物」と「鴨の網焼き」なのだが、大石内蔵助の食した鴨は、大人数と腹ごしらえの事情もあり、鉄鍋で炒りつけたものに生卵かけご飯と吸物にしたようだ。・・・・・・赤穂浪士の討ち入りに食べた食事が、鬼平の鴨料理レシピの酒肴へと発展したと思しい描写でもある。



 鬼平シリーズといえば軍鶏鍋がまず思い出される。鴨肉は冬の食材で西洋でもジビエとして珍重されている。いずれにしても狩猟鳥獣はその時代には滋養精力強壮剤であった。赤穂浪士一行に鴨肉で滋養をつけるように手配した堀部弥兵衛と安兵衛の妻たちのすばらしい献立に感嘆するものである。



















 


 東京に暮らしていた頃、残暑に耐えかねて、杉並の地下鉄南阿佐ヶ谷駅から新高円寺方面に歩いて5分ほどの武具道具専門店横の、青梅街道沿いにあった鰻屋で「うざく」と「うな胆焼き」に「鰻のたたき」でよく酒を飲んだ。その頃、杉並の界隈では「鰻のたたき」をだしてくれるお店は、ボクの知る限りでは、ここのお店だけであったと思われる。



 ボクは鰻の蒲焼はあまり食べない。別に嫌いなわけではないが、夜はご飯を食べない習慣なのだ。それに外食でお昼には麺類を食べる習慣であるからして、うな重とか、うな丼などはメッタに食べることはない。



 夜は鰻屋さんで白焼きを食べる。白焼きはメインディシュであるから、前菜にまず「うざく」をいただく。これは蒲焼にした鰻を細かく切って、胡瓜、青紫蘇、茗荷、生姜などと共に、三倍酢でいただく夏向きの料理。



 スープには、肝吸いをいただき、焼き物は肝焼きの串焼きで、意外に鰻を天麩羅でいただくのも美味しいが、斯様な趣向を凝らしてくれるお店など高級で行けない。



 ボクがよく通った南阿佐ヶ谷の鰻屋さんは、今では営業していないと聞くが、そこの「鰻のたたき」はタマラナイくらいに絶品だったし、庶民的な価格の店舗だった。



 その“鰻のたたき”は、白焼きにした鰻を、玉葱、紫蘇、茗荷などを薬味にして、これを土佐酢で食べるサッパリした味わいである。



 さて、小説の話しになるが、内海隆一郎という作家による作品に『鰻のたたき』という短編小説がある。この小説では、鳥取県は松江市内の鰻料理屋〔川郷〕の店主がつくる「鰻のたたき」が常連たちの定評あるお品書きなのであった。



 このお店は実在しているお店をモデルにしているみたいで、1997年に光文社文庫から『鰻のたたき』という表題で出版されている。これは10篇の短編小説が編まれた作品集であり、内容の全ては登場人物が市井の料理人であったり、料理に関した題目の内容でさりげなく語られる人情味豊かな味わいのある傑作選。



 内海氏の作品は、ごく一般的な庶民の日常を描いた哀歓ある作風で、とてもこなれた文章と文体で馴染みやすい読み物となっている。観念的であったり技巧的であったりしない描き方は、シンプルに料理自体も日常に浮かびあげて、なんとも美味しそうなのがステキなのだ。





 




 2007年の秋に、歴史的な北海道の札幌市月寒にある建造物が解体されると聞きつけて、札幌の豊平区月寒へカメラを忍ばせて足を運んだ。それは、その時は、防衛省の陸上自衛隊の施設であったが、戦前に建造された旧日本陸軍の防空通信施設なのである。



 それは、通称、月寒送信所(つきさむそうしんじょ)で、札幌市豊平区月寒東2条1丁目に所在していた陸上自衛隊通信施設であったが、現在は建造物は全て解体されてしまって跡形もない。







 防衛省の管轄時代は、北部方面隊札幌駐屯地飛び地という扱いになっており、月寒送信所の名はあくまでも通称である。月寒は、明治時代から、大日本帝国陸軍第25歩兵連隊が駐屯していた場所がらでもある。



 送信所は1943年(昭和18年)に設置され、戦前は、「大日本帝国陸軍北部軍防空指揮所」が置かれ、通信所では青森県・北海道のみならず、樺太や千島列島とも通信を行い、敵軍情報を収集して空襲警報を発令していた。近傍には本土決戦に備えて編成された北部軍管区(青森県以北を所轄)北部司令官官邸があったため、別名「北の大本営」とも呼ばれていた。 







 戦後は、送信所のみの陸上自衛隊通信所、ついで通信士の教育施設として使われていたが、近年は遊休地化し、末期は施設警備のための人員が派遣されているだけであった。民間に施設の売却も取りざたされて、札幌に現存する貴重な戦争遺跡であることから保存運動の声が僅かに上がっていたが、2007年11月26日に一般公開され、現在は解体されてしまい歴史の闇へと消えた。






 
 この北の大本営は司令官官邸が戦後に北海道大学の寮として使用され、現・つきさっぷ郷土資料館として存在する。ここから徒歩で5分もかからない場所に、防空指揮所が辺りの住宅地に囲まれて、異様で巨大なコンクリートの施設が鬱蒼とした空間に佇んでいた。



 米軍の航空機にも対処していたであろうが、主にロシア軍の侵攻を想定した建造物で、爆撃に耐えられるように全体の壁は2メートルのコンクリートの壁で覆われた通信施設は、屋上に土を盛って草を茂らせて、内部は当時の最新技術を駆使した通信設備を完備された領空を侵犯する航空機レーダーを備えていた。



 司令官指令所を中心に、通信指揮所や近隣の現在では月寒高校や小学校の施設へと、地下に網の目のように地下道が現存するらしいが、一般には公開されずに、これも歴史の闇に消えていくだろう。いずれにしても、道内の構造物としては、戦争の匂いを漂わせた貴重なものといえるコンクリートの建造物であったことは間違いない。


















 日本ケンタッキー・フライド・チキンによる、カーネル・サンダースの自伝の日本語版電子書籍がネットで公開されている。


 これはカーネル・サンダースの手記「Col.Harland Sanders/The Autobiography of the Original Celebrity Chef(世界でもっとも有名なシェフカーネル・サンダースの自伝)」というタイトルで、米国ルイビルにある米KFCの書庫に約40年間、気付かれずに保管されていたものであるらしい。



 これを観るに、主にカーネル・サンダースの食に関する情熱、仕事での努力、家庭料理の大切さなどが書かれており、伝説の世界的シェフであり企業家カーネル・サンダースの人生を垣間見ることができるであろう。



 この伝記で注目されるのは、サンダース特製の米国南部料理のレシピである。ロースト・ビーフと付け合せのカボチャ煮からはじまり、ミートローフ、ローストターキー、オムレツ、スクランブルエッグ、豚肉のリンゴ詰め、オニオンパイ、ハッシュパピー、ポテトパンケーキ、パースニップとカリフラワーのフレンチフライ、チキンブランズウィックシチュー、マリガンシチュー、コーンチャウダー、ホットビスケット、小麦パン、ブラウンベティー、オートミールケーキ、ピカンパイ、ピーチコブラー、コーンフリッター、バターパンケーキ等々、いずれもカーネル特製のレシピになっていて固唾をのむ。



 そのなかで気になるのはトマトのフライであった。日本ではトマトをフライにして食べるという感覚は多分に稀であろう。そこで思い出したのが、1991年に製作された米国映画の『フライド・グリーン・トマト』である。この映画は1987年に発表されたファニー・フラッグの小説『Fried Green Tomatoes at the Whistle Stop Cafe』を原作にしている。



 カーネル・サンダースのフライド・トマトは赤く熟したものだが、この映画では未熟の青いトマトが「ホイッスル・ストップ・カフェ」というレストランの名物料理になっている。いずれにしても南部料理ではポピュラーなものであるフライド・トマトである。










 さて、映画の出演者はキャシー・ベイツとジェシカ・タンディであるが、キャシー・ベイツは1990年の作品『ミザリー』でアカデミー主演女優賞を受けている。またジェシカ・タンディーも1989年の『ドライビングMissデイジー』で80歳という最高齢でアカデミー主演女優賞を獲得し、この映画でも助演女優賞にノミネートされた。


 映画ではキャシー・ベイツ演じるところのエブリン・カウチと夫のエドがアラバマ州バーミンガムの老人ホーム“ローズ・テラス”に訪れる場面から始まる。倦怠期をむかえお互い肥満ともおもえる中年の夫婦はエドの叔母(原作では母親)を見舞いに行く。



 叔母は惚けていて、見舞いに来た二人を歓迎してくれないので、疲れたエブリンは待合室でミルキィー・ウェイを3本、さらにバターフィンガーをの包みをあけてたいらげていると、老女が話しかけてきた。その老女がジェシカ・タンディ演じるところのニニー・スレッドウッドであった。



 ニニーはエブリンに老人ホームに来る途中で道に迷って鉄道の廃駅の前にあった往年に廃業したレストランについて話しを始める。そして、そこをかつて経営していた親族の話題をする。やがてエブリンはその老婆の昔話に惹きこまれていく。



 そこで、物語は次第にニニー婦人の遠い昔話へと映像は移行していく。それは1929年まで話は遡る。それはやがて“ホッイスル・ストップ・カフェ”を営業することになる少女時代のイジー・スレッドウッドの物語。



 スレットウッド家はアラバマの小さな町でも黒人の使用人もたくさん抱えていた富裕な家庭であった。そして、ニニーの語るスレットウッド家の長女の結婚式の回想場面がはじまる。部屋に閉じこもるイジーが2階から白いドレスを着て教会に行くの待つ家族のもとに降りてくる。それを歳の近い兄が囃し立てる。その兄とイジーは大喧嘩となり、へそを曲げてドレスを脱ぎすて家を飛出し庭の木の上に昇ってしまう。



 つまり、イジーという10歳くらいの女の子は、普段は女子が着るような服装はしていなくて、男の子同然に自然のなかで野性児の如く暮らし遊んでいた。それが着慣れない女の子の白いドレスを着せられて教会に行くのを拒む場面から回想シーンとなるのである。



 そこで、部屋に閉じこもり、やがて木の上に逃げ込んだ女装を拒むイジーを説得するのは長男のバディであった。イジーは親類縁者のなかでとりわけ長男バディーには心開いていた。説得に応じたイジーは男装で姉の結婚式に出ることを了承する。



 バディーには恋人のルースがいる。結婚式の後にイジーは兄のバディーと、その恋人のルースといつも釣りをする川へ出かける。川には鉄道があり、ルースの帽子が風に吹かれて鉄路に落ちたのでバディーは拾いに行くが、その時、悲劇は起こる。バディは編上げのブーツが鉄路にはまり逃げ遅れて轢死してしまう。



 この悲劇からイジーは心を閉ざして非行に走る。教会に通わず賭博や狩りに釣りをして野山を彷徨うようになる。そんなイジーが気がかりなルースはイジーの心を開こうと近寄る。最初はすげなくルースを扱うイジーだったが、やがて二人は心を許しあう。



 つまり、この物語はイジーとルースの過去の友情をテーマに描いて、現代ではエブリーとニニーの友情を描いた作品である。それだけではなく、黒人や浮浪者という差別の問題なども同時に表しており、映画はけっして暗くない明るく快活な演出になっている。



 たとえば南部映画の傑作ともいえる『風と共に去りぬ』のヒロインのスカーレット・オハラよりも、このヒロインであるイジー・スレイトウッドは同じように型破りで直情型の女である。ただ、イジーはスカーレットのように異性にはエロティックな情緒を抱かないし、異性などや世間体などには目もくれない。


 ルースは恋人であったバディの姿をイジーに求め、またイジーはルースに恋心を抱く。しかし、物語は二人の愛よりも共同体である世界に重点があり、そのコミュニティーの描き方がとても素晴らしい演出効果になっている。













 このドラマには、同性愛、人種差別、あらゆる南部の歴史的な偏見を問題にしながらも、現代のフェミニズムの倦怠感や、家族愛とプロテスタント的キリスト教の信仰の核心を復古的に明るく描いた秀作といえよう。テネシー・ウィリアムズの描いたような重たいドラマと違う作品。



 映画のあらすじのなかで、ルースがフランクという“Ku Klux Klan”という差別主義者と結婚するが、ドメスティック・バイオレンスを受けているルースをイジーは使用人や仲間と救い出す。このことが、物語の後半で大きく作用する。南北戦争を強く生きた『風と共に去りぬ』のヒロインであるスカーレットだが、この映画のヒロインであるイジーもまた逞しい。



 この映画で好きな場面は、心をルースに許したイジーがプレゼントにハチミツを送る場面。それも野生化した蜂の樹の洞から蜜巣を取り出すシーンは圧巻である。この危険を嗜めるルースはイジーを怒りつつも、“ビー・チャーマー”と渾名し、二人は、この出来事で心つながれていく。



 この映画でフライド・グリーン・トマトよりも、この蜂蜜の場面が強烈に印象に残るであろう。この場面でイジーという女の性格が極端に象徴化されている。なぜ、タイトルがフライド・グリーン・トマトなのかは理解に及ばないが、この南部のビーチャーマーはボクのお気に入りの女性である。



 余談だが、ジェシカ・タンディという女優はヒッチ・コックの映画『鳥』の主演女優でもあるが、老年になってからすばらしい演技を度々見せてくれた。





















 



                     ●ルクレチア・ボルジアの自画像





 夏の日盛りに林道を歩いていると、“斑猫(ハンミョウ)”を見つけた。何故かこの斑猫は人の歩く前を道路に沿って、まるで人を先導するかのように進む性質があるようで、昔の人は斑猫を通称で、「みちをしえ/みちしるべ」などと呼んでいた。



 英語で Tiger beetle と呼ばれる斑猫は、本邦ではナミハンミョウという、日本では最も大型(体長約20mm)のもので、「奔る宝石」の異名がある美しい種類もいる。






●ナミハンミョウ(みちをしえ/みちしるべ)




  このハンミョウ科に属するナミハンミョウの甲虫とは別に、鞘翅目のツチハンミョウ科が本来は、「斑猫」の漢字があてられる本家本元であり、毒虫で有名な昆虫なのである。されど「道先案内」として親しまれる種類のハンミョウ科は毒は有していない。



 日本では大豆などの農業被害に、マメハンミョウが害虫として農家では嫌われものであるが、このマメハンミョウもツチハンミョウ科で有毒甲虫なのである。だから鳥もこの甲虫は忌避して食さない。





                   ●マメハンミョウ






 








     ●中国の生薬でキオビゲンセイ{昆明の漢方薬店で一匹で約70円(1997年)だから高価な商品}


 




 さて、斑猫の毒性とは如何なるものかというと、マメハンミョウに触れると乳白色の体液が出されるが、これに触れると皮膚がひどい水疱を生じて、火傷の水ぶくれのようになりヒリヒリと痛むのである。


 この毒性は古今東西で昔から認識されていて、成分はカンタリジンであり、成虫、幼虫、卵にも含まれていて、人の口中から毒が入ると、糜爛(びらん)性の潰瘍を起こす可能性がある。



 中国では漢方薬に、「芫菁(ゲンセイ)」というものがあり、これが斑猫のキオビゲンセイで生薬にされている。日本でもその昔にチンキ剤として用いられていた時期もあり、現在は認可されない生薬である。



 生薬を微量に内服すれば、催淫、利尿、性病、躁鬱病、知覚麻痺などに効果があると漢方として昔から伝わる。



 中国のキオビゲンセイの仲間は、英語では「スパニッシュ・フライ」と呼ばれているが、「スペイン蝿」と直訳してはいけない。空を飛ぶ虫を英語では一からげにして、西欧では「フライ」と呼ぶみたいである。


 このスパニッシュ・フライは緑色で、和名を「西班牙芫菁」(スペインゲンセイ)とあてられているが、音読みでは「セイヨウミドリゲンセイ」などと呼ばれていて、学名を Lytta vesicatotra というツチハンミョウ科の蛍に近い仲間である。







 















●スパニッシュ・フライ(セイヨウミドリゲンセイ)




 さてさて、微量にカンタリジンを内服すれば漢方薬にもなれば、多量に服用されれば毒性は砒素や鳥兜なみの有毒物質でもある。


 18世紀末のフランスでは、放蕩貴族のサド侯爵が斑猫の粉末を媚薬に用いていた。この媚薬は「カンタリス」という名前で、カンタリジンを含んだ媚薬として巷間伝わる。


 マルキ・ド・サドの小説に、「悪徳の栄え」の女主人公であるジュリエットは、カンタリス入りのボンボンを忍ばせて、見境無く毒殺を繰り返す犯罪を犯すが、現実にサド侯爵は、「マルセイユ事件」でカンタリス入りボンボンを娼婦に食べさせて、放蕩行為で使用し事件となる。


 この事件で街娼マルグリット・コストは、膀胱炎と尿道炎を患い排尿が困難になる後遺症が残ることになった事が伝わる。


 ルネッサンス期にチェザリー・ボルジア(1475~1507)と、その妹であるルクレチア・ボルジアは、秘蔵の毒薬「カンタレラ」を用いて、ローマ法王や権力者と手をくみ、暗殺を繰り広げたのは有名なお話。



 ボルジア家の毒薬のレシピは残っていないが、「カンタレラ」はサド侯爵が媚薬に使用した「カンタリス」と同じく、カンタリジンを含有していたのは間違いないと思われる。





        ●サド侯爵の絵姿