フランスで1958年に公開されたルイ・マル監督の作品『恋人たち (Les Amants) 』は、ジャンヌ・モロー主演の映画であり、黒白の映像ながら人妻ジャンヌと考古学者ベルナールの夜の愛の密会場面は美しい交歓を、ブラームスの「弦楽六重奏曲第一番変ロ長調op.18」の曲で見事な場面となって映し出されている。
ブラームスは1860年にこの弦楽六重奏曲を作曲しが、それはブラームス27歳の時に若々しくも情熱的な曲風を讃えた室内楽の名曲であった。この楽曲が映画の男と女の熱愛を高揚させて終幕を迎える演出になっている。
人妻ジャンヌは、ブルゴーニュ地方にあるディジョン市の新聞社主アンリと結婚して8年を迎えていた。娘も一人いるが、夫が自分に無関心なことを口実にパリに住む幼なじみのマギーの家に頻繁に通う日々がが続いていた。そして、ラウルというマギーの友人と恋におちる。
ジャンヌの夫はパリの街に遊びまわる妻を訝って、ディジョンの自邸にマギーやラウルを晩餐に招くように工作する。そして、晩餐の日にパリからの帰途にジャンヌのプジョーの車が故障して、通りがかりの青年ベルナールのシトロエンで自邸へ送ってもらうことになる。
ベルナールは考古学者で、ジャンヌの夫アンリと意気投合し、晩餐に招かれ自邸に泊まることを勧められる。そんなベルナールは社交界の雰囲気を濃厚に発散するマギーやラウルとは気が合わなかった。アンリもベルナールと同じで晩餐はにはシラケて、その夜は最悪のものとなる会合であった。
ジャンヌはラウルに部屋へ誘われるが良識としてそれを断った。眠れぬジャンヌは月夜の庭へ出て寝酒を飲んでいると、ベルナールが現れて、二人は加速度的に結ばれていく。そして、朝になると二人は逃亡するハメになる。ジャンヌは夫も娘も捨てて、家を出て不安の旅にでることになるが、しかし、ジャンヌは後悔をしなかった。
この映画のジャンヌ・モローの美しさといったら譬えようもない。しかし、ボクは1960年に公開された『雨のしのび逢い (Moderat Cantbile)』のジャンヌ・モローの美しさの方を讃えたい。
ボクには、マルグリット・デュラス原作の『雨のしのび逢い』という映画は、ルイ・マルの映画のアンチ・テーゼに観えてしまうのである。
ガロンヌ川河口の町はボルドー近郊の小さな港町ブレにある鉄鋼会社夫人アンヌ・デパレート(ジャンヌ・モロー)は、一人息子を連れてピアノのレッスンのために町へ訪れていた。ピアノの教師はアンヌの息子にディアベリのソナチネを練習曲の題材としてピアノの指導をする。
ピアノの練習としては、ディアベリの二流でツマラナイ作曲家の作品を押し付けられた子供は、まるでお気の毒で、子供もピアノの練習を相当に嫌がっている様子が冒頭の場面でうかがえる場面。
おまけにタイトルにもなっている「モデラート・カンタービレ」の意味は?・・・・・・とピアノの先生からしつこく執拗に問い詰められる子供は何だか気の毒になってしまう程である。
音楽についてかなりの知識があるデュラスが、これほど執拗に「モデラート・カンタービレ」という言葉を繰り返していることには、この作品のテーマに深く関わっているのであろうが、なんせ邦題は雨なんか一滴も降らないのに『雨のしのび逢い』とは、いささか呆れてしまうしかない邦題のタイトルがつけられている。
それは、さておき、ここで「モデラート」というのは「穏やか」に、「普通に」といった意味がある。「カンタービレ」とは「歌うように」といった意味である。
このモデラート・カンタービレと楽譜にある強弱記号と表情指定されたディアベリのソナチネは、映画の全篇にも流れ、映画を暗示的に支配するかのように物語りは進展していく。
その最初の不穏なる出来事が窓の外から女性の悲鳴として聴こえてくる。それは階下のカフェで情痴事件による殺人から展開していくことが、この物語の表題に真意があるのであろう。
モデラートとは・・・・・・、音楽では「穏やかに」だが、「特に取り立てて何もなく」といった主人公の女性の生活の状態を示しているようでもあるのだ。そして、カンタービレ・・・・・・とは、「歌うように」だが、こちらも主人公の女性の生活の状態を表しているようで、カンタービレを別の意味から解釈すると、それは「楽しげに」または「享楽的に」となる意味あいも含まれる。」
つまり、この「モデラート・カンタービレ」という表情指定には、「享楽的で、取り立てて何も起こらない主人公の女性の生活」、・・・・・・そのものを描写していて、人妻ジャンヌは事実、夫の自分に対する無関心から、平凡な生活への不満、またブルジョワジーの欺瞞的な交際に嫌気がさしている訳で、そのような生活がディアベリの音楽に全て収斂されている。
アンヌはカフェの情痴殺人事件に異様な関心を示す。鉄鋼会社の工員が集まるその酒場でショーヴァン(ジャンポール・ベルモンド)と知り合って、この事件を契機に二人は度々逢瀬を重ねる。されど、経営者夫人とその労働者との関係は異質な関係として酒場の人々は、遠巻きに二人を異質な眼差しで見つめていた。
アンヌは次第にショーヴァンに惹かれていく。そして、ショーヴァンと町を抜け出し、夫や子どもを捨てるべく覚悟をして恋を打ち明けるのだが、ショーヴァンは冷たくアンヌに、・・・・・・「あんたは死んだほうがいい」と、あまりにも無残な言葉で突き放すのであった。
映画のラストは、冒頭の情痴事件で階下のカフェから聴こえた女の悲鳴が、今ではその事件のあったカフェで、アンヌ自信が恋に破れて、現実を喪失した不安の底からのムンクの絵のような絶叫をもって終焉する。
ヌーヴェルバーグの旗手としてルイ・マルは映画界に登場したが、いささか『恋人たち』のリアリズムに欠けた終幕の恋愛劇に、デュラスは男のロマンに一撃をくらわしたような作風で『雨のしのび逢い』を発表したような気がするでもない。
ブラームスの「弦楽六重奏曲第一番」は映画を見事に情熱恋愛を奏でていたわけだが、ディアベリのソナチナをもって映画にしたディラスは、意図的に、ルイ・マルの『恋人たち』を意識して選んだ平凡な楽曲だったのではないだろうかと密かに感じている次第である。
『雨のしのび逢い』はディラスの1958年の小説であるが、この小説の映画化には監督にピーター・ブルックがあたっている秀作として記念に残る作品であるが、『恋人たち』とは違う質感と現実性は実存主義的な映画の作風を感じさせてくれる秀逸な作品である。