弄筆百花苑 その1『沙翁の拉芬陀』 | 空閨残夢録

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デカダンよりデラシネの戯言



 沙翁とは、かのシェークスピアのことで、拉芬陀とは、ラヴェンダーの花を漢字で表した言葉である。さて今宵はシェークスピアの戯曲で『冬物語』の話題です夏ですけどネ・・・・・・。 
  

 ラヴェンダーという語は、古典ラテン語 “lavo (洗う)”をもとに作られたイタリア語の“lavanda (洗う)”に由来するといわれるが、最も旧いスペリングは“ livendula” で、これはラテン語の“ liveo (鉛がかった青)”に関係するという。いずれにしても、古代ローマ人は入浴剤としてラヴェンダーを好んで使用していたと伝わる。



 ラヴェンダーは大きく四種類に分けられる。一般的に知られているオフィキナリス種(真性ラヴェンダー)を含むスパイカ系、薬草として古くから用いられたストエカス系、花はストエカス系に似ているが葉が鋸歯をもつデンタータ系、葉が羊歯のようなプテロストエカス系。



 英仏の花言葉の本にみられるラヴェンダーのそれは、「疑惑」又は「不信」。米国の本では「承認」、「勤勉」、「告白」といった花言葉が載っている。なおラヴェンダーはピューリタンが好んだ香りでもある。その清潔な感じのフレッシュな香気には鎮静作用がある。


 ディオスコリデスの『薬物誌』には、近代医学の基本的参考書の一冊となった本だが、ストエカス系ラヴェンダーの薬効として、胸部の痛みや解毒剤に配合しても有効と示されている。現代でも精油として使うアロマテラピーに於いては、精神安定剤、安眠効果、殺菌、消毒の効能から万能薬とみなされる。



 ラヴェンダーの香りは、清々しく、しかも甘さを含み、リノナールとリナリアセテートを主成分に、カンファーなどの約300種の成分が、繊細な香気をつくりあげている。種類や栽培地によって少しづつ香りが異なるのは、他のハーブと同様である。ラヴェンダーは、花、葉、茎など全草が香るので、開花期に刈り取って蒸留する。



 シェークスピアの諸作品には花と香気の博物学と呼べるほど、薬草、薬味用植物、香料植物などのハーブ類の宝庫でもある。そのなかでも薔薇は比喩もあわせると百回近くも作品に登場する。それに比べてラヴェンダーはただの一回のみ現れるだけである。その作品は、『冬物語』で、四大悲劇のようにポピュラーではないが、悲喜劇に抒情詩、魔法、博物学の要素を取り入れた坩堝のような、シェークスピア後期の「ロマンス劇」の傑作の一つである。



 さてさて、『冬物語』のあらすじを紹介しておこう。



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 シチリア王リオンディーズは、シチリアへ来訪した親友のボヘミア王ポリクシニーズが、妻のハーマイオニと密通していると誤解する。リオンティーズ王は臣下であるカミローに、ボヘミア王ポリクシニーズの毒殺を命ずる。しかし、ポリクシニーズの無実を知っていたカミローは、彼に危険を伝え、共にシチリアを脱出する。

 これに激怒したリオンディーズ王は、妻のハーマイオニを牢獄へ入れる。リオンディーズ王は獄中で生まれた王女パディータをボヘミア領内へ捨ててくるように臣下のアンティゴナスに命じ、アンティゴナスはそれを実行した。だがリオンディーズ王は、神託によって密通の疑いは誤解であること、そして王女パディータの消息がわからない限り、永遠にリオンディーズ王は跡継ぎに恵まれないと宣言される。

 さらには、王子マミリアスが母の身を心配するあまりに死んだということを知らされ、また息子の死にショックを受けた王妃ハーマイオニは獄中で自害したとアンティゴナスの妻ポーリーナに伝えられ、リオンディーズ王は激しい後悔に苛まれる。王女パディータの消息を調べさせるも、アンティゴナスがボヘミアで死んだために王女の行方は分からなかった。

 舞台は16年後のボヘミアへ移る。王女パディータはボヘミアの羊飼いに拾われて、美しい少女に成長していた。その羊飼いの娘と身分違いの恋に落ちたボヘミア王子フロリゼルは、父ポリクシニーズの反対を避け、ボヘミア王の臣下となっていたカミローの助言を受け、パディータと共にシチリアへやって来る。未だポリクシニーズとの交友を回復できないでいたリオンディーズ王は、きっかけとするために二人を受け入れる。ポリクシニーズが羊飼いを伴ってシチリアを訪れ、羊飼いの証言により、羊飼いの娘が実はリオンディーズ王の娘であったことが明らかになる。

 晴れてフロリゼルとパディータは結ばれ、リオンディーズ王もポリクシニーズ王との友誼を取り戻す。実は王妃ハーマイオニも死んでおらず、ポーリーナに匿われており、ポーリーナの気遣いにより夫婦は運命の再会を果たして、大団円を迎える。


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 『冬物語』の前半を特徴づけるのは、疑惑、不信、嘘、狂気、邪推、妄想、妄執、泥沼、墓場、邪淫、罪、不貞、淫売、汚名、毒薬、錯乱、汚点、悪疫、火あぶり、地獄、生贄、拷問、悪魔、死といったキー・ワードがかもし出す象徴的な悪臭である。それは前半の陰鬱な死のムードをまざまざと匂わせていて、後半の芳しい明るい生の芳香との対比で彩る物語として描かれる。



  「さ、これはあなた方の花。ホット・ラヴェンダー、はっか、きたちはっか、マヨナラ草。」

                                                     (第四幕・第四話)


 シェークスピアがパディータをして村の人々に向って言わしめている言葉であるが、ラヴェンダーを “hot lavender” と呼んでいる件が気にかかる。この「ホット」という形容詞は坪内逍遥以来、「香りの高い」というふうに訳されていることが多いようだ。



 これは17世紀の医薬書に植物を、ホット(熱性)、コールド(寒性)、ドライ(乾性)、モイスト(湿性)の四つの観点から分類していたようで、「メランコリーに効くホットなハーブ」のリストには、ミント、ウィンター・セイボリー、マジョラム、マリー・ゴールドなどがあり、ラヴェンダーもこれらハーブ類と同じくホット(熱性)に精神的に作用するといういわれからきているようだ。



 見た目はラヴェンダーの紫色の花は夏の暑さに涼やかな風景を醸し出してくれるが、その芳香も精神に涼やかに及ぼしてくれるハーブといえる。(了)