映画のなかのイエス その3『聖衣』と『ディミトリアスと闘士』 | 空閨残夢録

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デカダンよりデラシネの戯言




 イエス・キリストの「キリスト」という言葉の意味は、一般的に「救世主」と日本では訳されているが、この「キリスト」という言葉はギリシヤ語で、これはヘブライ語の「メシア」という言葉の翻訳である。この言葉は「頭に香油を注がれた者」という意味が含まれている。メシアに対応するギリシヤ語はクリストス(Χριστος)で、「キリスト」はその日本語的表記であるヘブライ語のマーシアハ(משיח)の慣用的カナ表記とされる。メサイアは、Messiah の英語発音となる。


 「頭に香油を注がれた者」とは如何なる意味があるのか、以下に詳述する。

 

 イエスはダビデの末裔である。ダビデとはイスラエルに統一王国を成立させた最初の王である。ダビデ王は紀元前11世紀末に王朝を実現するにあたり、宮廷付きの預言者ナタンが定式化したとされる王の地位についての考え方は、以下のようにまとめることができる。

 
 「ダビデの子は、即位式の時に、香油を頭に注がれて、神の子となる」


 ここには四つの原則がある。それは、①王はダビデの子である。②王(の候補者)は即位式をへて王となる。③王は油を注がれた者である。④王は神の子である。


 王は「ダビデの子」であり、ダビデの子孫でなければならないの が第一の原則。血統に基づく王位継承は、この原則により、王位をつぐ継承者が限定される。血統による原則は先天的な基準によるものであり、不要な権力争いを避けるには大きな効果がある。


 ダビデの子孫であれば誰でも王ではなくて、即位式の時に神の子となるのが第二と第四の原則。王が一人であり、その保証とされるのが即位式である。そして即位式の時に「王は神の子」という宣言が行われた。エジプトやバビロニアでも王の即位式では、祭祀が神の託宣を述べて、「王は神の子」と宣言して、「あなたは私の子であり、私はあなたの父である」といった表現が用いられていた。


 王は強い権力をもつために、王は「神の子」とされた。しかし、王を「神」としてしまうことには、大きな問題 が生じる。「王は神ではない」ないし「神はあの王ではない」という議論が必ず発生して、これを封じるには困難が生じるからだ。しかし王を「神の子」とするならば、こうした反論を避けて、王は「神の子」であって、「神」そのものではないと言うことができ、巧みな論理的選択を求められるからだ。


 しかもこのことは、「神の子」である王は単なる人ではなく、「神の子」は人以上の存在という論理も起こる。即位式の時に王が「神の子」と宣言されることにより、「神の子」は一人しか存在しないと保証される訳で、人ではなく、人以上の「神の子」は王だけであり、他者が及ばぬ絶対的な権威がその王に属することになるのだ。


 そして、この即位式の儀式に、王位継承者には「頭に香油を注 ぐ」ということが行われていたようで、・・・・・・これが第三の原則。この儀式はエジプトにおいて行われていた行為を採用したものらしい。『出エジプト記(28章41節)』にモーセの兄アロンが、『サムエル記下(2章4節)』にダビデが、この儀式が行われる描写がある。



 さて、このことから「頭に香油を注がれた者」という表現が、ヘブライ語の「メシア」という言葉に凝縮されている訳なのである。こうした表現はダビデ王朝の王位継承がイデオロギーに定式化されたことにもなる。このメシアという言葉が古典ギリシヤ語に訳されて「クリストス」→「キリスト」となった次第であるから、本来の意義に「救世主」という言葉には、メシアという言葉との意味合いには関連性が殆ど無いとも謂える。



 新約聖書の“ナルドの香油”の逸話は、マタイ伝26章1-13、マルコ伝14章3-9、ルカ伝7章36-50、ヨハネ伝12章1ー8節に登場するが、この逸話は旧約聖書のメシアの伝説の前提になった話題で、マグダラのマリアがイエスに油を注ぐエピソードになっているのであろう。

 




 さてさて、映画史上初のシネマスコープ作品であり、この大型スクリーンによる映写方式を開発して、その記念碑的第一作となったのはハリウッド映画の『聖衣(The Robe)』である。壮大なスケールで綴る大スペクタル史劇は、1953年度アカデミー賞四部門を受賞し、構想10年、制作費450万ドルの巨費を投じて、延べ5000人にも及ぶ出演者を動員して製作された。

 イエス・キリストが処刑された時の身に纏っていた「聖衣」をめぐり、イエスの愛にふれ、イエスの教えとその信仰に目覚めたローマ護民官の姿を、壮大なスケール、壮麗な演出、荘厳な物語で描く感動的な巨編。監督にヘンリー・コスター、主演にリチャード・バートン、ジーン・シモンズが登場する。


 この映画ではナザレのイエスは二度登場するが、初めは姿が映されず、次は十字架を背負いゴルゴダの丘へ向かう場面と、磔刑にされるその姿は顔は写されることが無い。映画のあらすじを述べると、序章では ティベリウス皇帝治下のローマ。護民官・マーセラス・ガリオ(リチャード・バートン)は奴隷市場でギリシヤ人の奴隷・ディミトリアス(ヴィクター・マチュア)を手に入れる場面から始まる。

 奴隷市のセリで、次期皇帝のカリギュラ(シェイ・ロビンソン)は、剣闘士として見込んで奴隷ディミトリアスを金貨50枚の値を付けるが、マーセラスはこのギリシア人の奴隷に金貨3000枚で競り落とし、カリギュラの恨みを買ってしまったため、彼は即座にエルサレムに左遷されてしまう。愛するダイアナ姫(ジーン・シモンズ)をローマに残し、マーセラスはディミトリアスを連れてエルサレムへと向かう。


 エルサレムに到着したマーセラス一行はユダヤ人の過ぎ越しの祭で、熱烈に支持されるイエスの姿を遠方に伺う。何故かディミトリアスはイエスの姿に強く惹かれて、自分の真実の主人とはイエス・キリストであると直感してしまう。しかし、ローマ総督ピラトはそれから間もなくイエスを捕らえようとする。

 ディミトリアスはイエスを救おうと城下を彷徨うが、時すでに遅くイエスは捕らえられてしまっていた。そこで主人の護民官であるマーセラスにイエスの救済を要望するが一蹴される。それどころか、ピラトはマーセラスにイエスの処刑を命じるのであった。


 十字架を背負い倒れたイエスに鞭をふるうマーセラスの部下を、ディミトリアスは阻止して助けようとするが気絶してしまう。気がついた時には既に丘の上でイエスは十字架上であった。マーセラス達の一行は磔刑の間に賭け事に高じるが、一人の兵隊がイエスの身につけていた衣を銀貨の代わりに賭けて、この博打にマーセラスは勝つ。

 ところがキリストが最期に身に着けていた衣(聖衣)に手を触れたとたん、悪夢と気の病に陥り、「聖衣」はディミトリアスが奪ってマーセラスの元から逃亡してしまう。やがてティベリウス皇帝により召喚されたマーセラスは「聖衣」の奪還を命じられてパレスチナへ向う。

 キリスト教への迫害と「聖衣」を奪還して病を癒そうとディミトリアスを探していたが、彼は次第に神への信仰に目覚めいく。やがてキリストの教えを説く側に回ったマーセラスは、ペテロ(マイケル・レニー)とディミトリアスに従いローマに布教の旅へ出るのだが、皇帝ティベリウスが死に今やローマ皇帝は悪名高きカリギュラがローマを支配していた。


 ローマではキリスト教徒弾圧のために、カリギュラに捕らわれたティベリウスをマーセラスは救出に成功するものの、追っ手のローマ騎馬団にティベリウス一行を助けるために一人投降する。やがてローマの法廷でダイアナ姫と共に悲劇的な最期を迎えるのだった・・・・・・。


 ロイド・C.ダグラスのベストセラー小説を原作にしたこの作品は、翌年に『ディミトリアスと闘士』として続編が映画化される。マーセラスとダイアナは「聖衣」をペテロに託して処刑されたが、ディミトリアスはかつて奴隷市場で「剣闘士(グラディエーター)」となるところをマーセラスに救われるのだが、運命のいたずらはカリギュラによりコロシアムへ引きずり出されることに・・・・・・


 ・・・・・・リドリー・スコット監督による映画『グラディエーター』の原点が、1954年のこの映画作品に燦然と垣間見ることであろう。