イエスという名前、そしてキリストという意味は、カトリックの表記では「イエズス・キリスト」、プロテスタント諸派の表記は「イエス・キリスト」と呼ばれている、その名前の語源は、古典ギリシヤ語の「イエースース」が、「イエズス」と及び、「イエス」とやがて表記され、同じく古典ギリシア語の「クリストス」が慣用的な日本語表記として「キリスト」と呼ばれている。
「クリストス」或いは「キリスト」とは、概ね「救世主」を意味するようだが、これはヘブライ語の「メシア」のことで、「メシア」とは救世主のことではなくて、もともとは意味が違う。この「メシア」の件は後日にお話するので、今宵は「イエス」という名前についてだけ述べることにする。
「イエースース」と古典ギリシア語で表す 名前は、元はアラム語「イエーシュア」と呼ばれていた。イエスが誕生し、活動して、そして十字架にかけられた時代は、アラム語が一般的にイスラエルでは使用されていた。アラム語の「イエーシュア(Ysehua)」は、ヘブライ語の「ヨシュア(Yehoshua)」が語源の名前で、当時、イエスが生きていた時代ではありふれた名前であった。
ユダヤ人には苗字が無いので、父親の名を冠して「ヨセフの子イエス」とか、出身地の地名を冠して「ナザレのイエス」と呼ぶのが一般的なので、「イエス・キリスト」という呼び方はキリスト教的な表記に限定される。
旧約聖書には四人のヨシュアという名前の人物が登場してくる。その中で一番有名なのが、モーセの従者として、カナンの地に斥候(偵察)とし て選ばれたヨシュアであり、エリコを陥落させたヨシュアこそが筆頭であろう。
モーセは十二部族から、それぞれ一人づつ斥候を選出して、カナンの地へ派遣させる。その一人にエフライム族の「ヌンの子ホセア」がいたのだが、モーセは彼を出発に先立って改名し「ヨシュア」〔民数記13章16節参照〕という名前にする。「ホセア」とはヘブライ語で「救い」を意味して、「ヨシュア」の語義は「ヤーは救い」で、「ヤー」は「ヤーウェ(主)」の短縮形とされる。
セシル・B・デミル監督は自ら1923年に製作した『十戒』をカラー作品でリメイクしているのだが、モーセの壮大な物語の他に、イエス・キリスト伝も映画化している。それは1927年の作品で『キング・オブ・キングス』という映画なのだが、こちらをカラー作品でリメイクしたのは、ジェームス・ディーンが主演であった『理由なき反抗』のニコラス・レイ監督。
ニコラス・レイ監督による『キング・オブ・キングス』は1961年に、主演のイエス役に ジェフリー・ハンター、洗礼者ヨハネ役にロバート・ライアン、聖母マリアにはシオバン・マッケンナ、サロメ役にはブリジット・バズレン、ナレーションにはオーソン・ウェールズが当たっている。
配役のジェフリー・ハンターのナザレのイエス役が個人的には好きであり、革命家の如き澄んだ輝く眼差しが印象的である。洗礼者ヨハネ役のロバート・ライアンも颯爽としていて威厳があり好きである。ヨハネの首をヘロデ王に所望するサロメ役のブリジット・バズレンがこれまた妖艶ですばらしい。このサロメの踊りを見るだけでもこの映画には値はあろう。
この映画は神の子として祀り上げない抑制がきいた演出がよいと思うし、ユダの裏切りについて明確な演出が施されているのが実によい。 イスカリオテのユダはバラバとユダヤの反乱軍(つまり熱心党と呼ばれるゼロタイ派)として闘う戦士なのだが、リーダーのバラバはローマ軍にやがて捕らわれる。ユダは新たなリーダーとして救世主として謳われるイエスを担ぐことを思い立つ。
バラバは「マルコによる福音書」によるとおり、過越しの祭のたびの慣例となっていた罪人の恩赦にあたって、総督ポンティウス・ピラトはイエスの放免を期して、バラバかイエスかの選択を民衆に迫った。しかし祭司長たちにそそのかされた群集はバラバの赦免とイエスの処刑を要求。総督ピラトは不本意ながらこれに従ったため、バラバは釈放された。
イエスの弟子として活動していたユダは武装蜂起を容認しないイエスから離れ裏切ることになる。 赦免されたバラバとユダは十字架を担ぎ磔刑に殉じたイエスを遠く見守る。そしてユダは後悔に苛まれ死を選択する。イエスに対しての裏切りはユダに限らず、ほかの弟子たちも同じだったが、イエスの復活により愛の伝道にやがて赴くこととなるが、原始キリスト教のリアリズムを描いた作品として評価される作品。