デヴィッド・リンチの1990年の作品に『ワイルド・アット・ハート』がある。この映画の原作はバリー・ギフォードで、映画でも監督と共同で脚本も手掛けている。映画をボクは先に観てから、原作を読んだのだが、この小説はスコブル面白い作品。
1997年に、この小説の続編が翻訳された。もちろんタチマチ読んでみたが、期待をはるかに超えて読みごたえある作品であった。タイトルは『セイラーズ・ホリデー』で、この続編の物語は主人公がセーラとルーラの恋人同士の物語なのであるけれども、この続編では短編が5編で構成されている。二人はやがて結婚して、子供が生まれ、子供の男の子の成長が描かれ、晩年の人生が時系列的に描かれている。
だが、続編の冒頭の物語にはセイラーもルーラも登場しない展開から始まる。それは『ワイルド・アット・ハート』で、小説でも、映画でも、見逃すくらいの脇役だったペルディタ・ドランゴの物語なのである。
映画では、このペルディタをイザベラ・ロッセリーニが演じていた。セイラーはルーラとの逃亡生活から金に困って、ボビー・ペルーと手を組み現金強奪の強盗をする。
ボビーの恋人であるペルディタは二人の逃亡用の運転手役で犯罪を実行するが、ボビーは警官に撃たれて死亡、そしてセイラーは刑務所で10年を暮らすハメとなり、うまくその場を逃れたのはペルディタだけであった。
この強盗事件から逃げたペルディタの物語から続編の小説は始まる。そして、つづくセイラーの物語にもペルディタは因果として絡んでくる筋書きになっている。
さて、このペルディタの短編小説が、ペルディタの冒頭の物語だけが映画化もされている。この映画にセイラーもルーラも登場しない。メキシコに逃亡するペルディタがアメリカ本国の南部である国境から映画の物語は始まる。
この映画は邦題が『ペルディータ』(原題/Perdita Durango)で1999年の作品。原作のバリー・ギフォードも脚本に携わっている。監督はスペインのアレックス・デ・ラ・イグレシアス。この監督の作品はこの映画しか見ていないが、クエンティン・タランティーノ風のバイオレンス映画とかB級ホラー映画を主に作っているみたいだ。
出演はペルディタ役ににロージー・ペレス、この女優は他の作品で過去にアカデミー賞にもノミネートされているが、ペルディタの恋人役のロメオ・ド・ロローサを演じるスペインの男優で、ハビエル・バルデムの名演技によりヒロインの影はそうとうに薄くなっている印象を与える。
ペルディタとロメオはアメリカ深南部で出逢い、やがて二人は恋におちる。ペルディタはロメオにとってカルメンでありファム・ファタルでもある。またペルディタにとっても、ロメオとは破滅型の危険でサディスティックにして野性的な魅力ある存在であった。二人は人生において出会うべくして出逢った最良の恋人となる。
ロメオは深南部で強盗などの犯罪で稼ぎ、メキシコではアンテリアというキューバ人などが信仰するハイチのブードゥー教のような秘儀的民間信仰の儀式を見世物にして外国人から金を稼いでいた。その秘儀には供犠に殺人なども行われるアンダーグランドの見世物でもあった。
その見世物に金髪の18歳くらいの恋人の男女を二人は誘拐して、誘拐された女の子の父親、密輸を探偵する捜査官、南部の州警察、裏切り者のマフィアなどが、ペルディタとロメオ、そして二人が誘拐した子女4人を追いかけるロードムービーとなり、バイオレンス・アクションでもあり、ノワールらしくない何故かご機嫌なハチャメチャ映画の物語で展開する映画作品。
原作のバリー・ギフォードのイメージではペルディタ役は、サム・ペキンパーの『ガルシアの首』に出演していたメキシコ女優のイセラ・ベガだったようだ。ペルディタの名前は、ラファエル前派のアントニー・オーガスタ・フレデリック・サンズ(英/1829-1904)の作品で、『マグダラのマリア』(1960)の肖像画も好きだが、『ペルディタ』の絵画作品もある。この絵の女性像はシェイクスピアの『冬物語』の主人公であるペルディタである。
このシェイクスピアの喜劇であり、ロマンス劇を題材にフレデリック・サンズはペルディタを肖像にして描いた。ぺルディタという名前はラテン語で“失われたもの”を意味する。
映画でマーロン・ブロンドは蛇皮のジャケットを着ていた。ギフォードのセイラーのイメージはマーロン・ブランドと察しがボクにはついた。監督はシドニー・ルメット・・・・・・。
『ガラスの動物園』、『欲望という名の電車』、『熱いトタン屋根の猫』は、テネシー・ウィリアムズの代表的なアメリカ南部3部作だが、『蛇皮の服を着た男』という作品も同系列の南部の社会派ドラマであり物語であった。
テネシー・ウィリアムズの戯曲の登場人物たちは、喪失感や、欠落感を、強く抱えた者ばかりだった。映画の『ペルディータ』も同じように喪失と欠落の人生から、それを埋めるように性と暴力に身を染めていく存在にも見える。