ウィリアム・ゴールディングの小説を原作にした『蝿の王 (原題:Lord of the Flies)』は、英国のハリー・フック監督により1990年に映画化されている。
物語の時代は、第三次世界大戦という近未来のことになっていて、24人の幼年陸軍学校の児童を乗せた飛行機が太平洋上のある島に墜落する。機長は瀕死の重態で、少年たちは全員無事であった。子供たちの年のころはジュール・ベルヌの“十五少年漂流記"とほぼ同じであろう。
ゴールディング(1911-93)は『蝿の王』を1954年に発表した英国の作家であるのだが、小説の作中にもジュール・ベルヌの『十五少年漂流記』(1888年)や、ロバート・マイケル・バレンタインの『さんご島の三少年』(1857年)のエピソードが出てくる。
英国の作家であるバレンタインの冒険小説は、日本では馴染みが今では余りにも薄いが、 ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』の少年版文学と考えてもらってかまわないであろう。英国の作家であるゴールディングにとって、フランス人の作家であるジュール・ベルヌよりは影響が強かったと思われる作家である。
『蝿の王』の小説の物語は、初めに、少年たちは、大人を真似て、民主主義的に法をつくり行動を起こす少年がリーダーとなり、無人島の生活を秩序よく暮らすのだが、やがて狩猟をするグループと反目していく。二派に分かれた少年たちは、やがて狩猟隊の少年たちの野生に目覚めた原始的な力に脅かされていく。
この『蝿の王』は1962年にピーター・ブルックの演出によって映画化されているが、残念ながら日本未公開であるのだが、この1990年のハリー・フックという監督による「蝿の王」はよく出来た映画作品だと思う。
十五少年漂流記でアコーディオンを弾く少年がいたが、このハリー・フックという監督は、このアコーディオンを無残にも、海の波打ち際で壊れている映像にしたのは、とてもセンスのある映画監督と感じた。このセンスは映画の所々に何気なく映像にしているのが、美しくも恐ろしい象徴として描かれている。
さて、漂流した無人島には野性のブタがいる。少年たちはこのノブタを狩って焼いて食べるが、ブタの他に得体の知れない獣が存在すると妄想するようになり、その闇の獣のようなものに対して、殺したブタの首を捧げることにした。その首が闇を支配してくれると思えたからだった。
題名の“蠅の王"とは、聖書に登場する悪魔であるベルゼブブを指しており、作品中では蠅が群がる豚の生首を“蠅の王"と形容している。
1719年に『ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険』(The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe)が刊行された。所謂いわゆる『ロビンソン漂流記』はダニエル・デフォー(1660-1731年)の書いた小説であるが、海洋ロマン、無人島のサバイバル、漂流記冒険譚の元祖である小説。
ここからジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』、ロバート・バランタインの『珊瑚礁の島』、ウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』などの小説が登場したのはいうをまたない。この小説のジャンルを日本で桐野夏生ワールドで展開されたのが『東京島』がある。この小説は映画化もされている。つまり、この映画はサバイバル・エンターテイメント。
物語は日本の領海と思わしい南方の無人島に漂着した31人の男たちと、たった1人の41歳の女性との間で繰り広げられるサバイバルが物語の基本的なプロットである。
32人の流れ着いた太平洋の何処かの島で、清子という中年女性と、もろもろの男たちによる食欲と性欲と情動が剥き出しになった世界。その南洋の島を東京島と名付け生活することになる集団を、そこで生にすがりつく人間の極限状況を描く手腕は桐野ワールドではお手の物である題材であろう。
桐野ワールドはエンターテイメント小説として評価されるであろうが、ゴールディングの小説は漂流記冒険譚としたジャンルの中でも、人間の生の本質を描いた文学として、実存主義から構造主義の哲学的な移行を指針する金字塔の作品である。