現代の日本で高純度の恋愛小説を発表して、それも女と女の恋愛だけをテーマに連作している中山可穂の作品のなかで、『白い薔薇の淵まで』は彼女の一連の恋愛小説の傑作であろうし、この著作は第14回山本周五郎賞を受賞したこともあり、同性愛という偏見を越えて世間からも認知された文学作品である。
中山可穂は1960年、愛知県名古屋市に生まれる。早稲田大学教育学部英語英文科卒業。大学卒業後に劇団を主宰、作・演出・役者をこなすも、のちに解散となる。この劇団での出来事を小説化した1993年に、マガジンハウスへ持ち込んだ『猫背の王子』でデビューする。
『猫背の王子』の続編である1995年に『天使の骨』で第6回朝日新人文学賞を受賞。2001年、『白い薔薇の淵まで』で第14回山本周五郎賞を受賞。2002年『花伽藍』が第127回直木三十五賞候補作品となる。
『猫背の王子』は芝居に情熱の全てをかける王子ミチルとその主催する劇団での物語である。またミチルは女から女へと淫蕩なほどに性的な関係も精力的に構築しながら、ミチルの小劇団での公演により女性のファンたちに夢幻的な熱狂も巻き起こす女優でもあった。
そんなミチルの劇団が信頼していた仲間の裏切りにより解散するまでの経緯が、中山可穂の自伝的な要素を交えながら物語は展開する。彼女は公私ともに同性愛者であることも肯定していて、恋愛小説のほとんどは女と女の愛の物語になっている。
このミチルの青春物語は続編の『天使の骨』で、青春のエネルギーをほぼ傾注していた演劇の挫折から、ヨーロッパへの放浪と彷徨の日々のなかで自己を回復する物語と、パリでめぐり逢う小劇団の日本人女優との恋愛譚が主なテーマになっている。やはり事実として世界各地を若き日にさ迷い歩いた経験が小説に反映しているようだ。
この中山可穂の体験としてのアジアからヨーロッパそしてアフリカへの放浪と彷徨は、『白い薔薇の淵まで』のアジアへの探索紀行、『マラケシュ心中』でのアフリカへの逃避紀行で、小説世界に共通するもうひとつの大きな要素となっている。
2000年に発表された『感情教育』では女と女の情熱恋愛のテーマが高純度に輝きをみせはじめてくる。ひとりの女は逆境に生まれつく。産院で産み落とされた赤ん坊を母親は見捨てて消える。3歳の時に孤児院から養女として建具職人に育てられたが、養父は酒乱で、その家を早く出ることばかり考えて育った。
専門学校を卒業すると、内装会社のデザイン部に就職し、店舗や飲食店などの内装のデザインや施工の監理をした。仕事を通じて知り合った男性と結婚して、傍目には幸福そうな家庭を築くき一女にも恵まれて、その娘を溺愛した。そして彼女は一級建築士を目指して幸せに生活していた。
もうひとりの女もやはり逆境に生まれつく。その女の父親は自分の子供である幼い我が身を祖父母から連れ出して、遊園地に置き去りにし、母親の祖父母から金を巻き上げるような人でなし。母は男と酒に溺れるような生活をして、子供をヤクザの親分に預けたり、寺の住職である祖父母に預けたままでも平気な女であった。
やがて演劇を学びたいと東京の私立大学を志望するために母親のパトロンに学費を支援してもらい、上京して入学するや学生仲間と劇団活動に情熱を燃やす。劇団が解散するとフリーランスのライターとなって、忙しく仕事をこなす日々がはじまる。その取材中に、自分と同じような逆境に育った相手と出逢うことになる。
そして、このふたりの女は、出逢って、恋におちる。やがて、激しく愛は燃え上がると、ひとりの女の幸福な家庭にひびが入る。・・・・・・この小説でもひとりの女が自伝的要素で登場する。このフリーランスのライターもレスビアンであり、もうひとりの女は最初は同性愛者ではない既婚者である。この既婚者が同性愛の恋愛に傾くことで幸福な家庭が崩壊しつつ、逆境の過去と対峙する物語になるのが、この小説の展開である。
『白い薔薇の淵まで』は主人公は婚約者がいるキャリアウーマンである、だが、或る日、ジャン・ジュネの再来とまで呼ばれた新人女流作家の山辺塁と出逢い、平凡なOLが破滅的な恋におちていく。幾度も修羅場を繰り返しては、別れてはまた甘美な性愛に溺れ求め合いながら、ひたすら破滅に向っていく極限の愛の物語である。この中山可穂の高純度な恋愛小説は極限まで昇華して作品化された。
『マラケシュ心中』は心中に至るのは男女だが、物語の軸は既婚者の女性が女流歌人に抱くプラトニックな愛が、やがて性愛として結ばれるまでの試練にみちた愛の彷徨のドラマである。
いずれも100%恋愛小説の完成品として読めること間違いはない中編小説であり、中山可穂の『感情教育』、『白い薔薇の淵まで』、『マラケシュ心中』は、この作家による代表的な恋愛三部作であり、サフィストの情熱恋愛の傑作トリロジーであろう。
「なぜわたしはタンゴにこれほど惹きつけらるのだろう。同じラテン音楽でもサルサやボサノヴァにはわたしの琴線は何も反応しないのに、アルゼンチンタンゴだけがわたしを一瞬にして別次元までさらってゆく。タンゴという音楽に宿命的に流れている暗い情念と狂熱が自分の血の中にも滔々と河のように流れているのを、はっきりと感じることができる。自分の心臓の律動に一番近いのはタンゴのリズムである。わたしはタンゴダンサーやバンドネオン弾きになるかわりに小説家になって、この血の中に流れているものを表現しているに過ぎないのだと思う。」
・・・・・・まさにボクもそう思うのである。せつない愛の物語ばかりを、情熱恋愛だけを描いてきた小説家である彼女がタンゴに魂を奪われるのは必然的なことであり、それが短編小説に五編もタンゴをテーマに編まれたのが今回の作品集なのである。
「すぐれたタンゴの曲は、官能的なのにストイックで、どこまでいってもエレガントである。ひとつの曲のなかに光と闇があり、高揚と失墜を繰り返し、透徹した様式美に貫かれている。もともとわたしは様式美というものにたいへん弱い。そういえばタンゴの曲の構造は、世阿弥言うところの物語の基本構造である『序・破・急』のセオリーに正しく則っているように思われる。三分間のなかで緊密にドラマが展開し完結しているのだ。」
・・・・・・わずか短い文章のなかにタンゴ論を明解に言葉として表現し、己の小説世界を端的にも語っているところに納得させられるが、この短編小説の五つの作品を概略紹介しておこう。
まずは、「現実との三分間」から始まる。美夏は会社の転勤でブエノスアイレスに行く。そこで八尾という上司のもとで働く。この八尾は頗る仕事のできる男であるが、部下には全く人気の無い嫌な上司である。或る日、美夏はタンゴ教室でダンスを習うことにするが、タンゴ教室で八尾と偶然に出逢い、美夏は彼と踊りを通じて恋愛感情をしだいに傾けていくが、しかし、八尾は美夏に人生をおとしめるほどの裏切りをすることになる。
次の、「フーガと神秘」は、母と娘の物語である。娘はアルゼンチンに移住してタンゴダンサーを目指す、やがてバンドネオン奏者と結婚することになり、ブエノスアイレスで行われる結婚式に母が独りで出席するのだが、娘と父親との秘密を娘から聞く事で、自分が封印していた過去の記憶と対峙することになる。それはタンゴを始めて踊ったことによる官能的な神秘であり、タンゴの魔力による禁断の扉でもあった。
「ドブレAの悲しみ」は、ブエノスアイレスの場末の野良猫がバンドネオン奏者の老人に拾われて、老人にアストラル・ピアソラの名前を付けられて幸せな生活が始まる。やがて、アストルを飼ってたいた老人が亡くなると、同じアパートに棲む殺し屋のノーチェに飼われることになる。ノーチェは猫語が解せる男で、しかもピアソラ嫌いであるから、アストルをアニバル・トロイロの名前に変える。アパートの住人はこの猫を、アストルのA、アニバルのAから、ドブレ(ダブル)Aと呼ぶことになる。猫による一人称で語られる人間の悲劇をタンゴで奏でた作品。
「バンドネオンを弾く女」は現代の日本における状況を描くことで、本編のなかで一番庶民的な雰囲気と可笑しさをたたえている。今、テレビでドラマ化するならば面白いと思える物語構造ではないだろうか。夫の浮気相手とサイゴンに旅をする主婦の物語なのであるが、もちろん、ここにもタンゴというテーマは結末に隠されている。
さて表題作でもある最後の「サイゴン・タンゴ・カフェ」は、タンゴの国から遠く離れたインドシナ半島の片隅の迷路のような場末の一画にそのカフェは、・・・・・・あった。主人はタンゴに取り憑かれた国籍も年齢も不詳の老嬢。しかし東京から取材で訪れた孝子はその正体が、もう20年も沈黙を守り、行方知れずとなった異色の恋愛小説作家・津田穂波ではないかと疑う。彼女の重い口から語られた長い長い恋の話とは・・・・・・
この「サイゴン・タンゴ・カフェ」は、中山可穂の代表作にして、2001年に第14回山本周五郎賞を受賞した『白い薔薇の淵まで』に登場するヒロインの塁が、もしもアジアの辺境で死なずに、もしも生きていたら・・・・・・という設定で書かれたとも想像できるであろう小説。
中山可穂の作品でも、謎めいて、猫好きで、ジャン・ジュネの再来ともいわれた小説家の塁は、彼女の作品では最も魅力的な女性であり、愛さずにいられない哀しい存在であった。それがサイゴンで老女として、亡霊として再登場したのがこの作品といえるかも知れない。(了)