エロスの劇場 #⑧ 『ロリータとアナベル・リー』 | 空閨残夢録

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デカダンよりデラシネの戯言

 


 ウラジミール・ナバコフの小説『ロリータ』は、アメリカで出版社各社から出版を拒否された後に、ようやく悪名高いポルノ出版社であったパリのオリンピア・プレスから、1955年9月に初版が出版される。

 そして、1962年には名匠スタンリー・キューブリック監督により映画化され劇場公開された。1998年には、エイドリアン・ライン監督が『ロリータ』をリメイクしている。

 オリンピア・プレスによる初版、そして精神分析学者によるコンプレックスの症例の烙印などにより、“ロリータ”という美しい響きは、現代では通俗の匂いを強く纏うことになる。

 さて、主人公であるエドガー・H・ハンバート教授は、初めてロリータと出逢った時は、原作では、この少女は 、年齢が12歳と7ヶ月であった。ハンバード教授はニンフェット・マニアであり、彼にとって、ニンフェットとは、 9歳から14歳ぐらいまでの少女なのである。

 キューブリックの映画ではロリータをスー・リオンという当時15歳の少女が演じている。ライン版はドミニク・スウェインがロリータを演じていて、彼女も撮影当時は15歳であったが、映画では14歳の設定とされている。

 キューブリック版では、原作とスー・リオンの年齢に誤差が、微妙に曖昧とされているが、ライン版のロリータは14歳の設定で映画化されている。ライン版は、ナバコフの小説が1948年~52年頃の設定であると思わしいのだが、この時代考証により美術、衣装、風俗、舞台設定が行われ撮影されている。キューブリック版は映画制作年代の60年代初頭の設定で撮影されている。

 キューブリック監督により映画化された『ロリータ』は白黒 の作品であり、脚本はキューブリックがナバコフに依頼し、これをキューブリックは脚色して作品化した。オープニングの映像は少女と思われる素足のクローズ・アップから始まる。

 その小さめの白い片足はロリータの素足と想像される。その足先にペディキュアを塗る男の指先、それはロリータの義父ハンバートと想像されるであろう。この爪先に化粧を施す男の奉仕と、白く小さめの足には、エロティックな関係性と、フェティシズムを発散させる場面ともなっている。

 しかし、少女と義父のエロティックな関係性は、この象徴的な冒頭にある僅かな場面以外では濃密に描かれていないのがキューブリックの作品であった。本人も『ロリータ』をリメイクして、ロリータとハンバートの関係性にエ ロティシズムを濃密に描き直したいと語っていたと伝わる。

 映画はエロティシズムよりも、ミステリー性の高い作品であり、コミカルにして、通俗的な陽気さをたたえている。原作の殺人事件のクライマックス・シーンを、映画では冒頭にもってきており、その後のストーリーを回想形式で綴っている。映画を見る観客は、謎めいた衝撃的な殺人事件から始まる物語の展開に飽きることはない仕組みとなっているエンターテイメント性の趣きさえ感じる。




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 「ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。

 朝、四フィート10インチの背丈で靴下を片方だけはくとロー、ただのロー。スラックス姿ならローラ。学校ではドリー。

 書名欄の点線上だとドロレス。しかし、私の腕の中ではいつもロリータだった。」

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 ウラジミール・ナバコフの小説『ロリータ』第1部第1章の冒頭にある書き出しが、上記の文なのであるが、ロリータの片方だけ靴下をはいた姿がロー、ただのローとあるが、もう片方の靴下は、米国はニューイングランドの夏に、ハンバート教授は執筆と休養をかねて、訪れたロリータの自宅で発見することになる。

 キューブリックの映画では、ハンバート教授は長期滞在する下宿を探していて、未亡人シャーロット ・ヘイズ宅を紹介されていた。その下宿の下見にヘイズ邸を訪問する。シャーロット夫人に2階の部屋を案内される途中で、キッチンや浴室、シャーロットのおしゃべりが進行しつつも案内されるが、廊下にある籐椅子に片方だけの白い靴下がかけられていて、シャーロットはハンバートに気がつかれないように素早く、それを隠す。

 小説では、第10章で、ロリータが脱ぎ散らかした靴下の片方が、客間と並びのキッチンにつづく部屋の床の上に落ちていた。第19章では教会へ出かけたシャーロットの留守にハンバートはロリータの白い靴下の片方で不貞を働くことが告白されている。

 斯様にして、小説では、ハンバートがロリータの足(靴下)にフェティシズムを抱く描写を、キューブリック監督は、 映画冒頭のワンカットで表現している。映画は言葉よりもひとつの映像をもって表現するのだが、ハンバートの詩は読み解こうとするとあまりにも難解で、小説『ロリータ』とは、この難解な言葉と文法によりハンバートから紡ぎだされる集積なのであろうが、これを漠然と読めば面白くも可笑しくもない文学作品に見えてしまう。

 しかし、キューブリックの映画『ロリータ』は、文学性よりも、エンターテイメントの手法が前面にでたミステリー風のような展開で、時には心理劇でもあったり、コミカルな演出にして、ナバコフの文学性と接点をあまり感じさせない。

 キューブリックの『ロリータ』は、結論として、原作のエロティシズムが希薄な世界として、ナバコフの文学と核心は通低していないような気もする。こ の希薄なエロティックな部分をエイドリアン・ライン監督のリメイク版『ロリータ』で満たせるであろうが、しかし、ライン版のロリータには、片方の白い靴下は登場しない。


 ウラジミール・ナバコフはスタンリー・キューブリック監督の「ロリータ」の脚本を手がけたが、監督によりかなり脚色されてしまったらしい。その後、ナバコフはそれに不満だったのかは、いざ知らず、1970年に再度、映画用の「ロリータ」を脚本を表した。これはミュージカル上映されて、『ロリータ・マイ・ラブ』の題名で上演されている。

 エイドリアン・ライン監督が『ロリータ』を1997年にリメイクしているのだが、キューブリック監督と同じくクライマックスの殺人事件の事件現場から車で移動するハンバード教授の姿から物語の冒頭をすすめている。その形式はキューブリックと同じ方法であるが、映画全体はナバコフの小説に忠実に物語はほぼ展開する。

 ライン版はキューブリック版のエロティックな関係性が希薄だったのを埋めるように、ロリータのニンフェット(小悪魔)ぶりを十分に描き、性的描写にも余念がなかった。そして表面的にはモラリストとして演じて生きているハンバートの内面的な葛藤や孤独を、エンニオ・モリコーネの音楽が儚く虚しく奏でるのが切なく印象的である。

 それとは対照的にロリータはダンスに夢中で、落ち着きが無くいつも脚をバタバタさせていて、ハリウッドの映画俳優に憧れ、当時の流行曲(エラ・フィッツジェラルドのテイント・ホワット・ユー・トゥ・ドゥーなど)がお気に入り。ポップで奔放な通俗的な女の子なのであるが、モリコーネの深淵な音楽性がハンバートのテーマ曲になっているのと、ロリー タのテーマ曲は当時の流行歌で対照的に演出されている。

 この二つの対極的な音楽性という視点からだけでも、ボクはライン版の『ロリータ』を評価したいと思う。この映画のモリコーネの作品はあまり知られていないが、モリコーネの映画音楽の作品の中でも真骨頂といえる。それはエドガー・H・ハンバート教授の苦悩と悲劇を如実に表現していることの評価なのだが、ドロレス・ヘイズ(ロリータ)のテーマ曲ともいえる当時の流行歌による音楽監修が、小説でしか表現できない部分や、映像化の齟齬を音楽で埋めていると感じたからである。

 ライン版の映画『ロリータ』は終幕に、ロリータをハンバートから奪ったクィルティを拳銃で殺し(キューブリック版も同じ)、放牧地の丘で警察に追 い詰められて自動車から降り、丘の上から街を望むシーンがある。眼下の街からは子供たちの声が聞こえてくる。








 「高い崖からその音楽的な振動に耳を傾け、控えめなつぶやき声を背景にして個々の叫び声が燦めくのに耳を傾けていると、私にはようやくわかった、絶望的なまでに痛ましいのは、私のそばにロリータがいないことではなく、彼女の声がその和音に加わっていないことなのだと。」




 この映画の場面の最後のシーンにある朗読は小説のものであり、モリコーネのオリジナル曲は背景で美しい旋律を伴う。さて、このライン版の「ロリータ」はかなりポップな女の子である。ラジオから流れる流行歌、カー・ラジオの音楽、モーテルのBGM、ソーダ・ファウンテンのジュークボックス、ロリータのお好みの曲は1950年前後のヒット曲。このリズムとサウンドをモリコーネはうまく編んでいるのが心憎い。


 ナバコフは当初、「ロリータ」の執筆にあたり、タイトルを仮題として『海辺の王国』(kingdom by the sea)とした。このタイトルはポーの『アナベル・リー』(Annabel Lee )に出てくる詩の一節にある。『ロリータ』の小説では、主人公ハンバート・ハンバートの少年時の回想から始まるが、少女アナベルとの初恋の思い出が重要なエピソードとなっている。

 ハンバートの初恋の相手であるアナベルの再来として、ロリータが登場し物語りは悲劇的に展開する。そもそもロリータなる愛称は、ハンバートが14歳の時に純粋に愛して忘れられぬアナベル、そして、アナベルの転生と信じて惹かれたドロレス・ヘイズの複合化したネーミングこそが「ロリータ」という愛称なのだ。

 ロリータの本名はドロレス・ヘイズ、ドロレスは父を早くに亡くし、母と二人きりの母子家庭である。学校の友達からは「ドリー」の愛称で呼ばれ、母親のシャーロットは「ロー」と更に簡略な愛称で呼ばれている。

 それが何故、「ロリータ」とハンバートは名付けたかというと、初恋のアナベル・リーとドロレス・ヘイズの名がハンバートの愛の幻想のなかで昇華して、アナベル・ヘイズ、またはドロレス・リー、さらに別の名を「ロ・リー・タ」という金色にして褐色の姿でハンバートの前に登場する言葉となり名前となる。

 それは「Lo、Lee、Ta」 と表すと、“Lo”が「ドロレスのロ」、“Lee”が「アナベル・リーのリ」となり、ハンバートの可愛い「カルメンシータ」と麗しき響きへと重なっていくのだ。

 ハンバート・ハンバートの名前も一見奇妙なのだが、正確にはエドガー・H・ハンバートであり、エドガーの名前はポーと重なるのも仕組まれたものであろう。それでも翻訳ものしか読めないボクにはいろいろと謎があり、深い構造を秘めた文学なんだと改めて思うだけである。

 ウラジミール・ナバコフの『ロリータ』が、当初、発表された時には『海辺の王国 』(The Kingdom by the Sea)という仮題であったと先に述べたが、これはまぎれもなく40歳で亡くなったエドガー・アラン・ポーの最晩年の詩で、バラード(物語体)形式の詩『Annabel lee』からの引用なのである。

 エドガー・アラン・ポーは27歳でヴァージニアと結婚する。ポーの花嫁となったヴァージニアはその時、13歳9ヶ月だった。1842年の1月、ヴァージニアはピアノを弾きながら歌をうたっているときに喀血する。それ以降ポーは、愛する妻の死という現実から逃れようと深酒を繰り返し、また神経症的なメランコリーを深めていくこととなる。ヴァージニアは1847年1月30日、24歳の若さで結核で亡くなった。

 その後、ポーの生活はかなり荒んだものとなっていく。ヴァージニアの死から2年半後、ポーは40歳で亡くなるのだが、ポーの死後2日目に地元新聞『ニューヨーク・トリビューン』紙に、ヴァージニアへの愛を詠ったとされる『アナベル・リー』が発表される。

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  「アナベル・リイ」


 在りし昔のことなれども
 わたの水阿(みさき)の里住みの
 あさ瀬をとめよそのよび名を
 アナベル・リイときこえしか。
 をとめひたすらこのわれと
 なまめきあひてよねんもなし。

 わたの水阿のうらかげや
 二なくめでしれいつくしぶ
 アナベル・リイとわが身こそ
 もとよりともにうなゐなれど
 帝郷羽衣(ていきやううい)の天人だも
 ものうらやみのたねなりかし。

 かかればありしそのかみは
 わたの水阿のうらうらに
 一夜油雲(いううん)風を孕み
 アナベル・リイさうけ立(だ)ちつ
 わたのみさきのうらかげの
 あだし野の露となさむずと
 かの太上(たいじやう)のうからやから
 手のうちよりぞ奪(ば)いてんげり。

 帝郷の天人ばら天<示止>およばず
 めであざみて且さりけむ、
 さなり、さればとよ(わたつみの
  みさきのさとにひとぞしる)
 油雲風を孕みアナベル・リイ
 さうけ立ちつ身まかりつ。

 ねびまさりけむひとびと
 世にさかしきかどにこそと
 こよなくふかきなさけあれば
 はた帝郷のてんにんばら
 わだのそこひのみづぬしとて
 﨟(らふ)たしアナベル・リイがみたまをば
 やはかとほざくべうもあらず。

 月照るなべ
 﨟たしアナベル・リイ夢路に入り、
 星ひかるなべ
 﨟たしアナベル・リイが明眸(めいぼう)俤(もかげ)にたつ
 夜のほどろわたつみの水阿の土封(つむれ)
 うみのみぎはのみはかべや
 こひびと我妹(わぎも)いきの緒の
 そぎへに居臥す身のすゑかも。


                        (創元選書 『ポオ詩集』 日夏耿之助 訳)
 






 日夏耿之助によるポー詩集の訳文は、今では旧い文語体なのであるが、おくゆかしい日本語の真髄と文学の王道を感じさせてくれる。しかし現代の口語形式で咀嚼しないと文学を飲み込めない時代でもあるから、次に岩波文庫の『ポー詩集』で加島祥造による 翻訳詩もあわせて掲載しておこう。

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 「アナベル・リー」



 幾年(いくとし)も幾年も前のこと 
 海辺の王国に 乙女がひとり暮らしていた、そしてそのひとの名は
 アナベル・リー
 そしてこの乙女、その思いはほかになくて ただひたすら、ぼくを愛し、ぼくに愛されることだった。

 
 この海辺の王国で、ぼくと彼女は 子供のように、子供のままに生きていた
 愛することも、ただ愛ではなかった
 愛を越えて愛しあった
 ぼくとアナベル・リーの
 その愛は、しまいに天国にいる天使たちに
 羨まれ、憎まれてしまった。


 そしてこれが理由となって、ある夜 遠いむかし、その海辺の王国に 
 寒い夜風が吹きつのり ぼくのアナベル・リーを凍えさせた。
 そして高い生まれの彼女を、ぼくから引き裂き連れ去った
 そして閉じ込めてしまった 海辺の王国の大きな墓所に。


 天使たちは天国にいてさえぼくたちほど幸せでなかったから
 彼女とぼくとを羨んだ
 そうだとも!  それこそが理由だ
 それはこの海辺の国の人みんなの知ること
 ある夜、雲から風が吹きおりて 凍えさせ、殺してしまった、ぼくのアナベル・リーを。

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 ヴァージニアが死ぬ直前に、ポーに対して語りかけた言葉が記録に残っているのだが、最後にその言葉を添えておこう。


 「私が死んだなら、あなたの守護天使になってあげる。あなたが悪いことをしそうになったら、その時は両手で頭を抱えるの。大丈夫、私が守ってあげるから……」。(了)