レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホ(Leopold Ritter von Sacher Masoch、1836-95)は、ハプスブルグ家落日の貴族であり、オーストリア文化圏の作家である。当時は作家としては成功をおさめていたが、現在は皮肉なことにマゾッホの名は、彼の名から造語された精神分析学用語「マゾヒズム」ほどは知られてはいないであろう。
マゾッホの書く小説は、驕慢で嗜虐的な嗜好をもつ女性と、この女性に服従することを喜ぶ被虐的な男とが登場する。このことから、クラフト=エビング博士が1886年に公刊した『性の心理学』に、マゾヒズムの語源をマゾッホの作風を念頭にして心理学の造語にした。
マゾッホによる一番有名なマゾヒズム小説は、『毛皮を着たヴィーナス』(原題:Venus im Pelz、1871年)という作品で、この物語に残酷で美しい女ワンダが、彼女の崇拝者である主人公のゼヴェーリンの前に、素肌の上に毛皮のコー トを着て、鞭をもって登場する。
さて、マゾッホの私生活にワンダ・リューメリンという不思議な女が現実に現れる。この女は本名をアウローラ・リューメリンといって、マゾッホの小説の愛読者なのであるが、『毛皮を着たヴィーナス』に登場するワンダを名乗り、小説と同じように愛の契約を交わして結婚する。
その時、ワンダ(アウローラ)が27歳、マゾッホ36歳であったが、この結婚は10年間の契約とともに解消され、二人は別れて、ワンダは別な男と、マゾッホも若い娘と再婚した。
ワンダはマゾッホと出逢ったときは独身であったが、さも結婚しているような素振りで関係をもった。ふつうは結婚をしていても独身と偽ったり、男と結婚するのに処女のような素振りをするのだが、 マゾッホの愛読者であるワ ンダはマ ゾッホのツボをおさえていたのだ。
そして、二人の10年に及ぶ結婚生活の詳細はわからないとしても、おおよそマゾッホの小説を読めば、ワンダが絶対権力のある女主人で、マゾッホは彼女の命令を何でもきく、卑しい奴隷になるという愛の関係であったことは想像されるであろう。
サディストとマゾヒストの関係は、絶対と服従、権力と抑圧という主従の関係性であり、、或いは、行われる愛の関係性は宗教的な信仰心のように絶大でもある。ワンダとマゾッホの恋愛劇は、ある意味、エロスの実験劇にもみえてしまう。
恋愛においては、肉体的要素と精神的要素とが相互に干渉し合っている。純粋に精神的な要素だけで成り立つ愛などというものは想像しにくい。
両性間あるいは同性間の分離を克服し、非連続の固体を結びつけようとする絶望的な努力が愛だとしても、結局のところ、二つの固体は最後まで一つに融合することは不可能で、ただ互いの幻想を交換し合っているだけに過ぎない。
エロティシズムをペシミスティックな思考で捉えれば以上のような考え方もあるけれども、つまり、愛は不可能なのであるというような意見には、それなりの説得力もある。このような見解には、快楽は恋人たちを結びつけるというよりは、むしろ彼らを孤立させ、それぞれの自己内部の肉体へ閉塞させる性質のものだからである。
然るに、快楽にとらわれているときに、相手に注意を向けることなど不可能であるように、相手に対する愛と、自分自身の快楽とを、如何にうまく折り合いつける関係性は、そもそも可能ではない。
欲望が恋人たちをとらえ、恋人たちが快楽の海に溺れていけばいくほどに、愛における精神の要素は希薄となり、逆に肉体の要素はますます濃密となろう。
キリスト教的なアガペーは、自己中心的な愛ではなく、与える愛、自己犠牲の愛を説くのは、このようなエロス的な愛の陥りやすい危険を、未然に防ぐ思想とも考えられる。しかし、この思想はマゾヒズムに傾きやすいことも否定できない。
相対的な愛による融合が不可能と意識して絶対を垣間見んとした恋人は 、もはや相手を奴隷として、サディズムとマゾヒズムと いう関係性を構築し演出したエロスの劇場こそが、ザッヘル・マゾッホの小説『毛皮を着たビーナス』であり、これは愛の実験劇でワンダとゼヴェーリンのエロスの秘法である。
更に、このサディズムとマゾヒズムの関係を極限へと収斂し或いは昇華すると、もはや相手を物体として観るか、さもなければ相手の視線から、自己を物体として提供するという小説を描いたのが、フランス地下文学の最高傑作と呼ばれるポーリーヌ・レアージュの『0嬢の物語』である。
この小説はアンダーグランドではあるけれども単なる官能小説ではない。序文にあるジャン・ポーランによる「奴隷状態における幸福」という文章を読むだけでも、この小説からエロティシズムの奥義を垣間見ることであろうし、『O嬢の物語』と『毛皮を着たヴィーナス』は文学的ポルノグラフィーの金字塔といえよう。(了)