『火の鳥』を何編から読むべきか?
永遠の課題ですよね?(笑)
基本的にどこから読んでも良い構成になっていて、複雑に伏線が貼って合って後から気づくのも良いし、正解なんて無いんですよね。
私の好きなのは『鳳凰編』これはアニメにもなりましたね。
時代としては奈良時代位の日本。隻眼隻腕の盗賊・我王は、命を助けられた高僧・良弁上人と諸国を巡るうちに、病や死に苦しむ人々の姿に出会い、心を入れ替え、眠っていた彫刻家としての才能を開花させるが、昔傷つけた若者と仏像勝負をすることになる。因果を感じさせる話。
次に好きなのは『復活編』未来の話で、感情を持つロボットが現れる。アイザック・アシモフの話で似たようなものがあったが、手塚治虫はまったく違うベクトルで描いている。
そして本編とは大きく関わりのない物語であるが、
私の好きな作家、施川ユウキの『バーナード嬢曰く。』において『火の鳥』を何編から読むべきか?
と言うテーマで論争が起きるという話がある。
奇しくも
『復活編』と『鳳凰編』の争いになっていました。
まあ、両方とも有名だからね。
で、
我王!
前回紹介した坂口安吾の『桜の森満開の下』に出てくる盗賊のイメージが私の中では我王なんですよね。
これは
読書家あるあると言っていいのかわかりませんが、
字面を追っている内に、いつしか本に入り込む瞬間があり、あえて中二病的に言うならダイブ!するようなね。
その瞬間全てが映像化されるのです。
時には映画、あるいはアニメだったり漫画だったり、
もちろん私が今まで見てきた物が反映されます。
それは文章のクセだったりキャラクタによって映像化の種類が決まる訳です。
不思議な事に最初に設定したキャラクタと世界観が最後まで変更される事が無く続行され続ける。
つまり
『桜の森,,,』では手塚治虫タッチの絵柄で話が続いていった訳です。
逆に言い換えると、
手塚治虫は坂口安吾を読んで『鳳凰編』を構想したのかなぁ、なんて思っちゃったりする今日この頃。野口五郎。
お は り !