平成24年4月8日、岩槻城祉の桜も満開という佳き日に、太田 灌は招かれて「築城のルーツ」について30分の講演をする機会を得ました。

 会員は岩槻区在住者が40名、区外在住者が9名の合計49名。それに大岡家関係者が6名登録されている事が判りました。

 通例として、大岡家初代岩槻城主忠光公の命日4月26日に至近の日曜日に開催していた処、本年は特別の事情が有って3週早い開催である旨説明がされていました。 一同は、午前中に忠光公の菩提寺龍門寺(岩槻区日の出町)にて、12代目子孫の大岡忠恒氏の来席を得て礼拝式と墓参をされていたようです。

  私が指定された会場に着きますと、既に皆様が揃って居りましたので早速講演に入りました。 時間が

限られていましたにで、早口で要点だけを説明するのが精一杯で瞬く間にタイムアップとなりましたが、そこは岩槻藩士の末裔の皆様ですので要点は正しく理解して戴けたことと思います。

 その後は、別室で昼食をとりながらの和やかな懇親会で、気の置けない長閑な春の真昼の宴となりました。 本日の講師という縁で、大岡忠恒氏の隣りに座らされた私は、折角の出会いに因んで二つの事を忠恒氏にお伝えしました。

  ○ 6代藩主大岡忠固(ただかた)公について、

    第12代将軍家慶(いえよし)の日光社参(1843年)に当たり、岩槻城主として将軍を城内に迎え、

    往路・復路合わせて二泊のお世話をし、大変な名誉であった事。

    また、この社参を取り仕切った老中水野忠邦の家中上下8人が、岩槻城下横町の鮒屋又衛門方に宿泊した事。 その「鮒又」は現存し、今の当主で10代目になる事。

  ○ 7代藩主大岡忠恕(ただゆき)公について

    1853年に岩槻の時の鐘の鐘楼を修築された事。 その後、平成になってから鐘楼の瓦と木製の        

    袴部は造り替えたが、躯体は忠恕公の時代のままで有る事などです。


忠恒氏は「鮒又」の話に殊のほか関心を示され、近日中にも行ってみたいという御様子でした。


廃藩置県から140年を越えて、このような会が今尚続いている、これは立派な「岩槻の歴史資産」です。