人格統合では、ちまたに溢れかえる善信仰をバッサリと切っている。ただ、光に向かい、なにもかも全てを愛して、ゆるしていきなさい、という教えは一見素晴らしいが、人間というものは、頭で分かっていても行動に移すのがむづかしいこともある。

例えば職場の嫌な上司を、無条件で愛するのはむづかしいはずだ。

そんな時、善信仰者は良からぬ考えが頭をよぎり、自己嫌悪に陥るか、葛藤することになる。《あんなに私のためにしてくれた人だし、いや、でもあれは八つ当たりじゃないかな、失礼じゃない?》などなど。

結局、善信仰者は自分が至らなかったんだと思い、怒りを抑圧する。抑圧したものは、いずれかならず放出する。怒りは、恨みへと変わる。

また、善信仰者は何かと損をする。良いように利用されやすいのだ。とりあえずは、良い人、良い子をやめると楽になる。人は、年中無休で良い人、良い子でいるのは不可能だ。

だからといって悪を信仰しようと言っているのではなく、善悪にかたよらない、ニュートラルな意識状態を保つことが大切である。

人格統合では、悪魔的人格を特に大切にする。
この人格は、大なり小なり誰の中にも潜んでいる。

この、悪魔的人格を小出しに表現出来ているうちは良いのだが《ジョークにしたりして》

あまりにも強く、良い人、良い子であろうとして、悪魔的人格を抑圧した場合、悪魔的人格はどこかでかならず放出する。《経験済みなので、間違いないです》

だからこそ、人格統合では悪的要素を大切に扱うのだ。

悪的要素を裁くのでも、責めるのでもなく、ただ観察する。話しかける。なぜこんな歪んだ思いが形成されたのか?何歳の頃に、何がきっかけで?いつまでも放置して抑圧してきてごめんなさい。など、悪的人格にいろいろ話しかけてみると、やはり、その人格の表現は、周囲の愛の欠如、思いやりの欠如により深く傷ついた自己の、心の叫びなのだった。

そして、それを本当の意味で癒せるのは、他ならぬ自分自身だけなのだ。